特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

映画『燃えあがる女性記者たち』と『ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家(シネアスト)』

 イスラエルのガザ侵攻が迫っています。
 『一般人は避難しろ』とイスラエルは通告していますが、病人やお年寄り、乳幼児も含めて200万人もの人がそう簡単に避難できる筈がありません。
 WHOは『避難勧告は病人や怪我人にとっては死刑宣告』とまで言っている。

 国連によると既に100万人が家を失ったそうです。ちなみに東日本大震災での避難者は47万人。今回は天災ではない、人災です。

news.yahoo.co.jp

 ここまで来るとイスラエルが狙っているのは『民族浄化』(民族の抹殺)ではないかと思えてなりません。場合によっては数十万人もの犠牲が出るかもしれないガザ侵攻を計画しているのです。

 イスラエルナチスユダヤ人に対してやったことを現代に繰り返そうとしている

 既にイスラエルはガザへの水や食料、電気の供給を止めていますが、ネットも遮断したようです。自分たちの虐殺の証拠を隠すため、でしょう。ナチスアウシュビッツのことを隠していたのと同じです。 

 アウシュビッツは収容者が地面に埋めて隠した証拠写真から足が着きました。今回も同じです。全てを隠し通すことなんかできない。
 現代のナチスイスラエルがやっていることは歴史に残る『人類の恥』として、いずれ世界中に広まるに違いありません。


 今回は ドキュメンタリー2本。同じ日に同じ映画館で見ました。
 渋谷で映画『燃えあがる女性記者たち

カースト外の不可触民として差別的な扱いを受ける女性たちによって立ち上げられたインド北部のウッタル・プラデーシュ州にある新聞社「カバル・ラハリヤ(ニュースの波)」。その女性記者たちを描いたドキュメンタリー。
writingwithfire.jp

 インドのカースト外の不可触民「ダリト」の女性たちが立ち上げた新聞社を取材し、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた作品です。
 
 インドは選挙がある民主国家ではありますが、貧富の格差、男女や民族の差別、それにカーストなど複雑かつ非民主的な慣習が色濃く残る社会です。そんな中でカバル・ラハリヤは不可触民の女性たちだけで立ち上げられた地方新聞社です。

 この映画はそこで働く3人の女性記者の日常を描いています。
 表向きは男女平等、民主主義が謳われていますが、画面を見ているとインドの社会はとてもそんな感じではない。政治家は威張っているし、民衆(男たち)は取材を続ける女性記者たちを冷ややかに扱う。

 特にモディ首相のインド人民党はかなりヤバいことも良く判りました。
 元来は従来の与党であった国民会議派の腐敗に対抗して社会主義的な方向性を主張していたと聞いていますが、ヒンディー至上主義、イスラム排撃など宗教とナショナリズムが交じり合って大衆の感情を刺激することで権力を獲得している。日本で言えば維新+公明党創価学会みたい、それともれいわ新選組のスケールを大きくして、もう少し知能を加えたような感じでしょうか。

 そんな中 物怖じしないで取材をしていく彼女たちは凄いなあ、と思います。物怖じしないで政治家や警察などに迫っていくところは日本の大手新聞などの記者とは全然違う、と思いました。

 あくまでも事実主体の取材というジャーナリズムの基本を守っているところも立派です。取材の場で取材もせず延々自説を開陳したり(笑)デマを飛ばしても平然としている東京新聞の望月衣塑子のような大アホとは全く違います。

 記者と言っても人によっては満足な教育を受けていない人もいます。家に電気が通ってない、夫や家族は封建的な意識に捉われたまま、など様々な困難を抱えています。

 カバル・ラハリヤはデジタル社会の到来に備えてデジタル化を進めています。記者たちはスマートフォンで取材を行い、SNSYouTubeなどのデジタルメディアを通して情報を発信していく。
 彼女たちは将来『民主主義が確立していない時代にあなたたちは何をしていたのか』と問われても恥ずかしくないような仕事がしたい、というのです。
 ここも日本の大多数のマスコミとは大違いです。

 ただ映画では新聞社設立の経緯やなぜ経営が維持できているかなどの説明は全く排されているので、そこいら辺は非常に残念でした。世界中どこの新聞社もデジタルの波に押されてアップアップしている状況で、ジャーナリズムを貫こうとするカバル・ラハリヤは大丈夫なのか。
 見ている側ははっきり言って、この新聞社の事が良く判らない。それでも記者たちを取り巻く困難とそれにめげない活き活きとした表情は十分感動的ではあったんですけど。


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 続けて見たのは映画『ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家(シネアスト)

1950年代から1960年代、フランス映画界で巻き起こった映画運動「ヌーヴェルヴァーグ」をけん引した映画作家ジャン=リュック・ゴダール。『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』などの作品の映像や過去のインタビュー、ゴダール作品に出演したマリナ・ヴラディやハンナ・シグラ、ナタリー・バイらの証言でゴダールの人となりや考え方に迫っていく。

mimosafilms.com

 1960年代フランスの映画運動「ヌーヴェルヴァーグ」の代表的映画監督、ジャン=リュック・ゴダールに迫るドキュメンタリーです。

 ゴダールは医師の父と銀行家の家出身の母という裕福な家庭で生まれました。実はヴィシー派で対独協力にも積極的だったそうです。ゴダールはそれを恥じ、二十歳を過ぎると親とはお互い、縁を切ります。祖母の葬儀にも出られなかったようです。頼るべき家庭、家族がいないというのはゴダールの半生に長く影を落とすことになります。

 映画は彼の生涯を時系列で辿っていきます。
 最初は様々な傑作を送り出した60年代前半のヌーヴェルヴァーグ時代。

 そしてアンナ・カリーナとの結婚と別れ。

 次は毛沢東思想に傾倒していった60年代後半、

 当時の恋人、アンヌ・ヴィアゼムスキー回顧録を朗読する形で話が進むのもお洒落でカッコいいです。

 そして完全に毛沢東思想に取りつかれて商業映画から引退していた70年代,。

 ここで彼は生涯のパートナーでもあるカメラマンで活動家でもあったアンヌ=マリー・ミエヴィルと巡り合います。

 そしてカンヌでの受賞など80年代の復活から90年代、『映画史』などまた難解な作品へ回帰していった軌跡が描かれます。

  ボク自身 ゴダールには随分影響を受けたから、というのはあるのですが、かなり面白いドキュメンタリーです。
 『気狂いピエロ』や『軽蔑』など60年代初期の傑作のかっこよさ、お洒落さは勿論、毛沢東思想へ走った60年後半の『中国女』や『東風』などの驚くほどのくだらなさ、アホらしさも清々しいほど見事でした(笑)。

 『パッション』や『カルメンと言う名の女』など80年代にお洒落かつ難解な映画で復活を遂げた作品群も心に残った。

 晩年はまたストーリーを拒否するような作品へ戻っていったのは閉口したけれど『映画史』や『ソシアリズム』は訳が分からないながらも心には残った。

 生涯を通じて、彼の作品は常にスタイリッシュだったと思います。そして、知的だけど抜けている

 作品に出演した女優さんたちのインタビューを織り交ぜながら、これらの経緯を総括的かつポイントをついて取り上げたドキュメンタリーの手腕はかなり良かった。特に60年代後半 当時の恋人アンヌ・ヴィアゼムスキーの手記を元に構成したのはお洒落かつ印象的でした。 

 安楽死に至る晩年のことはあまり描かれませんでしたが、生涯のパートナーとも巡り合い、生まれ故郷に近いジュネーブ周辺に隠棲したあとも、やはり彼は人間を拒否し続けた、とは思いました。人間を拒否したというより世界を拒否したという感じかな。
 それでも人間や世界に希望を持とうとしたから 自ら死を選んだのだと思います。

 映画の中で女優さんたちは揃ってゴダールの事を『変人』と評していましたが、カメラが回ってないときは『愛くるしい』と言っていました。彼の本質はそこにあるかもしれません。 

 ゴダールに興味ないと辛いでしょうけど、60年代、70年代、80年代の描写も含めて、かなり面白い、なおかつお洒落な描写のドキュメンタリーでした。


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