特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

映画『ウーマン・トーキング』

 この週末は梅雨の中休み。雨も降らず、暑さもほどほど、日差しもほどほど。気持ちが良い週末でした。

 毎年 この時期になると近所のお寺が蓮の鉢を沢山、山門の前に飾っています。毎朝 鉢を出しては夕方には引っ込めている。これも修行なのか、さぞかし大変だろうとは思いますが、毎年これを見ると季節を感じます。

 世の中はおかしなことばかりです。政治家は国民のことなんか考えていないし、人々も殺伐としている。LGBTの人や外国人などに日頃のうっ憤を押し付けている。

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 身近なところにある、のどかな光景がいつまでも続いて欲しいです。


と、いうことで、六本木で映画『ウーマン・トーキング

 2010年。アメリカの荒野に独自の生活を営むキリスト教一派の人々が暮らす村があった。彼らは文明を拒絶し、外の世界から隔絶した暮らしをしている。その村では深夜 女性たちに対する性的暴行が多発していた。女性たちは悪魔の仕業や作り話だと男性たちから否定されていたが、ある日 現行犯が捕まり現実だったことを知る。犯人を保釈させるために男性たちが街へ出かけて不在となる2日間、女性たちは自らの未来を懸けて、今後どうするかの話し合いを行う。
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 ほぼ無名の映画だったにも関わらず、今年のアカデミー作品賞、脚色賞にノミネート、脚色賞を受賞したことで話題の作品です。

 2005年から09年にかけて、ボリビアにあるキリスト教の一派、ナノメイトのコミューンで起きた実在の事件を基にしたミリアム・トウズによる小説が原作です。忘れ難い映画だった『テイク・ディス・ワルツ』、『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』などの女優兼監督のサラ・ポーリーが映画化。

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 主演は『キャロル』などのルーニー・マーラ、『ワイルド・ローズ』などのジェシー・バックリー、『007』シリーズや『パディントン』シリーズのベン・ウィショー、製作も務めたオスカー女優のフランシス・マクドーマンドらが共演。製作陣にはブラッド・ピットが名を連ねるなどマイナー映画とは思えない豪華な顔ぶれです。

 映画は地方の宗教コミュニティで起きる謎の事件から始まります。ナノメイトという宗派の名前は直接映画に出てきませんが、アーミッシュのように文明や教育を拒否したキリスト教の一派のようです。人々は敬虔な信仰を持ちながら文明から離れ、集団で暮らしている。場所も背景も時代も一切説明がありません。夜 眠っている女性の元に何度も謎の影が忍び寄るところだけが描かれます。

 夜が明けると女性の太ももや体に痣や傷がついているのがわかる。しかし舞台は宗教コミュニティです。神のせいにされて出来事は有耶無耶にされてしまう。何度か同じことが起こるうちに、目撃者も現れ、男性が女性を暴行していたことが分かります。犯人は逮捕され、外部の街の警察署に収監される。男性たちは犯人を保釈させようと、街へ出かけていく。
 
 女性たちにはこのような事件は今までも起きていたことが判ってしまう。実は男たちはみんなグルでこのような暴行は日常的に行われていた。

 残された女性たちは話し合いを始めます。今後 自分たちはどうするか。方向性は三択。見て見ぬふりをするか、コミュニティに残って男たちと戦うか、コミュニティを出て行くか

 映画では女性たちの議論の様子が描かれます。女性たちの議論の中に過去のエピソードが所々に挿入される。観客にとっても状況が次第に判ってくるという構造です。

 起きていることは酷い話ですが、暴力などの露骨な描写は一切ない。非常に好ましいですが、二次的な被害を誘発させないという意図もあるのでしょう。その代わり画面が非常に暗いです。薄暗い画面が占める割合が非常に多く、会話が中心のお話に緊張感を醸し出しています。ほとんど舞台劇のようです。

 『見て見ぬふりをする』という選択には自分たちの今までの生活を守ることができる、というメリットがあります。今までの生活を変えることには誰もが怖れがある。  
 『戦う』という選択肢もある。しかし暴力で戦うことは自分たちの宗教的信条と反することになる。
 『出て行く』という選択肢には彼女たちは外界の生活を知らない、という問題点がある。孤立した世界で生きてきた彼女たちは外に出て生きて行けるのか。

 女性たちの意見は別れています。議論は時にお互いの感情が露わになったり、混乱したりで、なかなか進まない。お互いの言い分を聴きながら、じっくりと行われる議論はまるで、民主主義のお手本のように見えます。
 こういう描写は分断が進んだ今の世の中を皮肉っているとしか思えません。ネットのフェイクニュースや左右を問わずアホ連中の短絡的な議論やデマに取りつかれて、我々は民主主義を危うくしているのではないか。勿論 アホな国会議員が議場でダイブする日本も例外ではありません。


 このコミュニティは外部の文明や教育を否定しています。女性たちは教育を受けていないために読み書きができない。

 そこで唯一残った男性で読み書きができるオーガストベン・ウィショー)が起用されます。彼の家族はコミュニティの掟に背き追放されていましたが、追放されたことで外部の大学を出た彼はコミュニティに呼び戻されたばかりです。唯一の字が書ける人間として、彼は女性たちの議論を記録し続ける。


 映画を見ていて思ったのは『一番悪いのはキリスト教じゃねーか』ってことです。もちろん性暴力を振るう男たちはどうしようもないクズ連中です。しかしクズどもを正当化し、守り続けていたのはコミュニティの宗教です。教会の長老を頂点とした宗教と体制が、女性たちを暴行・搾取する構造を維持し続けてきた

 その隠蔽体質は、少なからずの聖職者が少年や女性への性暴力を行ったことを長年隠してきた現実のキリスト教会にも共通している。キリスト教だけでなく、神道創価学会統一教会やらあまたのエセ宗教も、共産党などのイデオロギーも人間を抑圧するという点では大した違いはありません政党だろうが宗教だろうが市民運動だろうが、閉鎖的な組織は腐る。『人間=個人のため』ではなく『組織の維持』という別の論理を持ってしまうからです。
 それともジャニーズやハーヴェイ・ワインスタインなどの性犯罪者を庇い続けてきたマスコミとの共通点に着目するべきか。

 驚きなのは途中で舞台は2010年、という設定が明かされること。『これは過去の話だろう』と思って見ていた多くの観客は愕然とさせられる。実際は最初に書いたように2005年ころの実話だそうですけど、映画では何も語られていません。現代でも性を理由にした差別や暴力は存在している、ということに愕然とさせられます。


 映画の90%は対話をしているだけの静かな映画です。しかし画面からは、深い、激しい怒りが伝わってくる。

 この映画でもっとも感動的なのは唯一の男性、ベン・ウィショーが演じる書記の存在です。コミュニティの男はクズか共犯者ですが、彼だけは外部で教育を受けたこともあって一線を画している。女性たちの民主的な議論に加わるでもなく、彼女たちが答えを出そうとするのをただ、支えている。
 『男らしさ』、メイル・ショーヴィニズムとは対極の存在に見えるベン・ウィショーを起用したキャスティングは『いかにも』で意外性はないかもしれませんが、映画に説得力を持たせている。

 議論が煮詰まると彼が意見をするシーンがあります。すると一部の女性からは『お前に議論に加わる権利はない』と論難されます。男であるだけで原罪があると決めつけているかのようです。と、同時に、自由を求めている筈の女性たちもまた、抑圧性があるのを良く表している。


 2日間の議論の末、女性たちを意志決定をします。共生・矯正が不可能であろう14歳以上の男は子供も含めて全て置いていき,自分たちはコミュニティを離れる。世の中の真理=バカにつける薬はない。つまりバカは相手にしないってことです。コミュニティの再生はオーガストにゆだねる。彼の武器は『教育』です。

 女性たちの選択の結果は必ずしも明るい未来が約束されているものではありません。教育も受けておらず、お金もないのに見ず知らずの『どこか』へ向かう女性たち、彼女たちの表情には解放感が溢れているとともに厳しさも感じられます。
 彼女たちの前途は、別れ際にオーガストから銃を渡されることに象徴されています。暴力を否定してコミュニティを離れることを決意した彼女たちはそれゆえに暴力を振るってしまうこともあるかもしれない。

 ベン・ウィショー演じる書記のオーガストの選択に、ボクはもっとも未来への希望を感じました。この映画、非常に現代的な映画です。そして、フェミニズム映画のように見えて、この映画、実は男性映画かもしれません。


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