特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

原子力ムラとナチス:映画『ハンナ・アーレント』

明日12日は小泉純一郎が日本記者クラブで記者会見を行うそうです。政界引退以来始めてだそうです。テーマは『日本の歩むべき道』。それがどういうことかは明らかです(笑)。ボクは小泉の脱原発はもしかしたら安倍への援護射撃ではないか、という気もします。これで万々が一 安倍が脱原発でも言い始めたら人気爆発、改憲だってできるし、あと20年は自民党政権が続くでしょう?(笑)。勿論 安倍晋三にそれだけの頭があるとも思えません。それにしても小泉の発言に期待しなくてはいけないようになるとは(泣)。


                                                     

ちょっと前 某大学の研修に行ってきました。いろんな企業の人とホテルに一週間、缶詰めになって、あらかじめ用意された過去の企業の事例を、ケーススタディとしてグループでディスカッションするというもの。その内容自体は殆ど興味ないんだけど(笑)、グループのなかに面白い立場の人が居た。東大の原子力工学を出て民間企業へ入り原発関連の取引をしていたという、いわゆる原子力ムラの本流です。今まで悪口は散々言ってたけど、現物を見たのは初めて(笑)。
彼は自分から『私が居た原子力ムラは皆さんのご指摘通り、利権で甘い汁を吸ってきた組織です。』というし、今は原子力関連の商売はあがったり、閉店状態だそうです。だから、その件についてはそれ以上話すことはなかったです。ごく普通の人だったし。
原子力ムラの人間といえども、極悪非道の人非人というわけでもない(そういう奴もいるかもしれませんが)。だが事実として、そういう普通の人が世の中に大きな害をなしている(ごく一部にはメリットもなしている)わけです。それは個人と言うより、原発と言うテクノロジーとそれを支える法律や経済の仕組みの問題です。原発を止めるには何よりもその仕組みを解きほぐしていくことが必要で、それには一人ひとりが自分の頭で問題を考え抜くこと以外にはない、ということを改めて実感しました。



なんで今更、そんなことを書いたのかと言うと、こんな映画を見たからです。
神保町で映画『ハンナ・アーレント
映画「ハンナ・アーレント」オフィシャルサイト


舞台は1960年。アルゼンチンに逃亡していた、ナチのユダヤ人虐殺に関わった大物アドルフ・アイヒマンイスラエルによって拉致され、裁判にかけられることになった。アイヒマンユダヤ人500万人を強制収用所へ移送した責任者だったのだ。自身もユダヤ人で収容所から逃げ出してアメリカに亡命したという経歴を持つ哲学者ハンナ・アーレントは雑誌ニューヨーカーの取材で、アイヒマンの裁判を傍聴することになる。絞首刑の判決が下った後、彼女は『アイヒマンは巨悪ではなく単に命令に従っただけの平凡な人間だった。それに彼の仕事は移送に協力した各地のユダヤ人リーダーなしでは行うことはできなかった』という記事を発表する。果たして、彼女に対して各方面からの非難が殺到する。

マルガレーテ・フォン・トロッタという女性監督、それに主演女優のバルバラ・スコヴァと言う人は過去『ローザ・ルクセンブルグ』という作品でカンヌの主演女優賞を取ったそうです。この人たちの姿勢は明確ですね(笑)。

●ハンナ役は記録映画の中の本人とそっくり。こんなへヴィ・スモーカー、今ではありえない(笑)。

                                              
ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』で有名な哲学者ですが、ボクは読んだことありません。事前には哲学者の話が映画になるのかいな、と思っていましたが、予備知識はなくても全然大丈夫な、平易な作品でした。
                                                      
映画はアイヒマンの裁判とそれに対するアーレントの行動、言論にスポットを当てています。
アーレントが見たアイヒマン法廷に引き出された彼は数百万人を殺したモンスターでもなければ、極悪非道の殺人鬼という風情でもない。自分は命令に従って事務処理をしただけだ、と陳述するただの小役人でした。
説得力を持たせるために、映画では当時の裁判の記録フィルムがうまく使われています。アイヒマンの淡々とした陳述、気弱そうな表情、それに傍聴する本物のハンナ・アーレントの姿(俳優さんがすごく良く似ていた!)
●劇中引用された本物のアイヒマン

                                                   
アーレントはこう述べます。『アイヒマンは我々と同じ平凡な人間だ。彼は罪悪感を感じておらず命令に従っただけだと主張している。彼は根源的悪、つまり存在そのものが悪なのではなく、思考停止して判断力をなくした結果、大きな悪を犯すに至ったのだ』。フィルムで現物のアイヒマンの姿を見ていると大多数の観客もそう思うかもしれません。


だが、当時の人たちはそうは思わなかったようです。特にユダヤ人からは。記事を発表したアーレントユダヤ人からの強硬な圧力にさらされます。彼女の元には『アイヒマンを弁護している』とか『同胞を売った』などの抗議が殺到するし、大学の職も失いそうになります。イスラエルは本の出版を止めさせようと脅迫まがいの圧力までかけてきます。
ボクにはなんで、そういう反応になるのかさっぱりわからなかったけど、ヒステリックな世論は日本だけでないし、自分たちだけを絶対視するイスラエルナチスそっくりの体質はそのころから明快だった、ということは良くわかりました。


だが、彼女は屈しません。
寄せられた抗議の大多数は彼女の記事を読んだことすらない根拠の無いものだったし(ここも日本と一緒)、『誰もが平凡な悪になる可能性がある。それを防ぐためには思考停止せず、自分で考え抜くことが必要だ。』と考えていたからです。
●学生に「自分で考え抜け」とスピーチする主人公

                                              
映画ではそんな彼女の背景にある夫婦生活や交友関係が多く描かれています。彼女と同じようにアメリカに逃れてきたユダヤ人たち、シオニストシオニズムに否定的な共産主義者であり、なおかつ女性にモテモテの彼女の夫。度々 過去の回想が挿入される。かって彼女は師匠である著名な哲学者ハイデッガーとの不倫関係でした。ハイデッガーナチスに入党したことで彼女は袂を分かつが、その過去はトラウマとして残ります。その思い出が『誰もが悪を犯す可能性がある。だから我々は思考停止と戦わなければならない』という信念に繋がっていくんでしょう。
結果的に多くの友人たちが彼女のもとから去っていく。だが彼女は死ぬまで、主張を変えません。


                                                          
ナチス原子力ムラも仕組みは良く似ていますアイヒマンも東電の勝俣や清水も、多くの害悪を世の中に垂れ流したが、おそらく本人たちは罪悪感を感じていないでしょう。なぜなら、その構図は我々と同じ平凡な人が思考停止した結果だからです。つまり我々も、決してそれとは無縁の存在ではないです。
だからこそ一人ひとりが自分で考え抜くことが大事になってくる。再稼動の話にしろ、園遊会でのタローくんの話にしろ、食品偽装の話にしろ、日々起きている出来事の多くが『考え抜くため』のケーススタディみたいな感じがするな(笑)。
淡々とした描写のなかで、そういうことを考えさせる、丁寧に造られた映画らしい映画でした。