特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

鶴橋育ちのロックンローラー:映画『オース!バタヤン』

橋下徹の例の暴言は語る価値すらない、どうにもひどいもので、最初は一切触れるつもりはなかった。が、こういうバカな話を殲滅するために論点を整理しておくのは多少は意味があるかもしれない。彼の言ってることを、(彼が正確に報じていると言っていた)毎日の記事を元に箇条書きにしてみる。http://mainichi.jp/area/news/20130514ddn041010034000c.html

(1)従軍慰安婦について日本政府による強制連行はなかった。
(2)他国の軍隊でも慰安婦のような制度はあった。
(3)当時は従軍慰安婦のような制度は必要だった
(4)今のアメリカ軍も風俗業などを利用して、性犯罪などを防止するべきだ。

(1)については正直ボクは知識もないしわからない。しかし現実に連行されたという証人が何人もいるのだから、きちんとした検証が必要だろう。それに日本政府が絡んだ『平和のためのアジア女性基金』のHPにはオランダ人やフィリピン人が強制的に連行された旨がはっきり載っている。仮に韓国では証拠がなくてもインドネシアやフィリピンでやってたら一緒じゃないか。ばかばかしい。慰安婦問題とアジア女性基金 日本軍の慰安所と慰安婦
そもそも強制連行があろうがなかろうが、日本軍が業者に便宜を図ったり、運営に関与していたのは紛れもない事実だ。女性と一緒に軍用機でフィリピンから逃げ出した将軍(富永恭次)もいるくらいだ。自称愛国者(笑)が強制連行がなかった、と鬼の首でもとったようにのたまっているが、仮に強制連行がなくたって日本軍がロクでもない軍隊だったということには変わりがない。極悪非道のナチスと一緒のカス軍隊だったんだよ。
(2)はその通り。でも、日本だってやってた(笑)。はい、有罪。(3)は論外。それならNYのハーレムやシカゴの黒人街へでも行って『南北戦争当時は奴隷制度は必要だった』って言ってみろよ! だいたい必要だったってどうして過去のことまで決めつけられるんだよ(笑)。(4)はもう頭がおかしいだけ。ボクが米軍の司令官だったら激怒してそんなことを言ってる奴の頭を吹き飛ばすぞ!そもそも風俗業があろうがなかろうが性犯罪は起きているじゃないか。大阪はどうなんだよ!http://sankei.jp.msn.com/life/news/130107/trd13010722330018-n1.htm

                                                      
                                                   
要するに橋下の発言は『よその国でもやってたじゃん』、という小学校低学年みたいな言い訳だけだ。というか言い訳にもなってない(笑)。ハシシタが最低なのはあいつの勝手だが、『日本の男は変態の色ボケか、小学校低学年くらいの頭脳の奴ばかり』と世界中に思われたらどうするんだよ。石原、猪瀬と2代続けて日本のイメージ悪化に多大なる貢献をしたバカ知事を生み出した東京都民が偉そうなことをいえる立場ではないが、橋下徹に投票した大阪市の皆さんは自分で自分の顔に唾を吐きかけているんですよ。



                                              
同じ大阪で育った、だけど正反対の人の映画を見た。歌手 田端義夫を描いたドキュメンタリー『オース!バタヤン映画『オース!バタヤン』公式サイト

2006年、彼が87歳の時に大阪鶴橋の小学校で開かれたリサイタルの様子に、戦前から戦中、戦後まで、時代とその中で生きた彼の様々なエピソードを挿入したもの。

                                             
田端義夫はちょうど先月 94歳で亡くなってしまったばかりだ。ボクはこの人のことは全然知らない。歌を聞いたことも見たこともなかった。だけど、この映画の予告編でギターを抱えて歌う彼のことを初めて見て、『この人、ロックンローラーじゃん』と驚愕した。なんというか佇まいが軽やかで自由で、こういう人のことはぜひ知りたいと思ったのだ。

映画は、『オース!』という故立川談志の掛け声から始まる。何ともかっこいい滑り出しだ。そのあと画面では、彼は戦前 松阪市で子供10人(笑)の家族で生まれ、父親が亡くして極貧の暮らしで栄養失調で片目の視力を失ったこと、食うために大阪の鶴橋に流れてきたが、夜逃げを繰り返して暮らしてきたことなどが語られる。
彼は学校では弁当を用意できず、毎日 昼休みになると校庭の二宮尊徳銅像の前へ行って、『昼食を食べないのはあんたと一緒だな』と銅像に向かって話しかけていたそうだ。そのころ 大阪に給食があればよかったのに!(ねえ,Matsukentoさん)。
                                                                                        
                                            
そういう彼も彼の歌も、全然暗くないのがいい。ボクは大方の日本のフォークソングと演歌は苦手なのだが、その理由は暗くて押しつけがましくて、その癖 自家撞着しているからだ。一方 田端の歌はメロディは演歌っぽく聞こえるけれど、彼の歌いっぷりは湿っぽくなく、からりとしている。聞き手が歌の中に入り込める開放性みたいなものがある。映画の中の関係者のインタビューで『苦労を突き抜けたところに彼はいる』というものがあったが、確かにそういう感じだ。
歌手になって前線まで慰問にいったときの話。地雷が埋まっている道を通って前線へ向かうのは命がけだったそうだ。『なんで人間同士 殺しあわなければいけないんや』とその時だけは田端ははっきり怒りを込めて語っていた。
                  
                                                                          
そのあと空襲の炎の中を生き延びて、やっと戦争が終わり、彼が引き揚げてきた兵士たちでごった返す大阪駅へ行ったときの話になった。彼のヒット曲『かえり船』は、戦地からの復員船にのって帰ってくることを歌ったそうだ。今の歌とは全く重みが違う。けど暗くない。すごい。
映画で立川談志が『(彼のファン層は)下層階級なんだよ。田端義夫はそういう人たちの気持ちをつかむんだ』と彼らしい言い方で語っていたが、暴力団との繋がりも含めて、一時期の田端の歌は本当の意味でのフォークソング(日本のインチキなものではなく、W・ガスリーみたいなもの)、PEOPLE'S SONGなんだと思った。
そんな彼が鶴橋育ちっていうのも象徴的だ。ボクは鶴橋なんて一回しか行ったことがないけれど、なんとなく、その意味が分かる。ヘイト・スピーチなんてやってる奴は田端義夫の歌聞いて土下座しろ!
●鶴橋でのステージ風景。87歳のロックンローラー

                                          
                                                       
そんな田端義夫はなんとも自由な人で女性関係もすごかったそうだ。そもそもギターを持つきっかけが『ギターを持って歌ったら女にモテるやろな』(昔も今も変わらないが)(笑)。女性とみれば口説いていたそうで、インタビューでは奥さんがはっきりと『ステージでは立派だが、人間としては全く!お勧めできない』と苦々しげに語り、長女はなんとも複雑な表情を見せていた(笑)。こんなおっさん、確かに身内だったら絶対に困る(笑)。だけど本人は全く屈託がない。鶴橋のステージでも客席へ降りて行って、おばあちゃんの手をぎゅーっと握ったまま歌を歌ったり、小学生の女の子と掛け合いするときに周りから『気ぃつけや』と声がかかると本人もまんざらでもなさそうな表情を見せる(笑)。これはホント、憎めない。このロクでもない爺さん、『この年になると気をつけなければいけないのは階段とこれだけなんや』と言って小指を立ててみせる。なんという87歳だ!(笑)。


皆を笑顔にし、自分も笑顔で居続ける田端義夫と、子供みたいな意地を張り続けて他人を傷つける橋下徹とは人間の質がまったく違う。

                         
              
映画では立川談志や奥さん、長女のほかにも千昌夫小室等白木みのる、後援会の会長などのインタビューが挿入されている。それに忘れちゃいけない、鶴橋のステージの司会を努める浜村淳の文字通りの名調子(笑)。ラスベガスでスロットが大当たりした話、60年近く使い続けたギターの話、いろいろ面白かった。戦前、戦中、戦後と彼の生涯をたどる旅は昭和の歴史をたどるものにもなっている。そういう意味でもこの映画は傑作ドキュメンタリーだ。

                                  
                                                                                                
残念ながら彼の昔のヒット曲の話は良くわからなかったが『ズンドコ節』はチャック・ベリーみたいと思ったな。テリブルなギターの響きがかっこいい。彼はピックではなく指でギターをひくのだが、その理由は昔はピックがなかったから、だそうだ。『ロックンロールというのは音楽の形式ではなく精神の自由な在り様』とボクは定義しているのだが、田端義夫はまさにロックンローラーだ。まさにかっこいい爺さん、こういう年の取り方もあるんだなあ。
                                                                                
                                                                                                                                                   
田端義夫だけでなく、『幕末太陽傳』とか『鴛鴦歌合戦』(この映画に出ていたディック・ミネに田端はあこがれていたそうだ)みたいな昔の傑作映画を見ると良くわかるが、元来 日本はこういう明るくて自由な人たちがいるところなんだよ!
こういうロクでもない、立派な人がいたのを知って、すごくうれしかった。楽しかった。


●当日 劇場には彼が60年近く愛用していたギターが飾られていた。その前に白い花が一輪。

●60年使い続けたギターの裏はすり減って丸くなっている。こんなギターは初めて見た。