特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

春の夜のおぼろげな夢:映画『原発切抜帖』

昨日3月7日の朝日新聞3面を読んで思わずムッとした脱原発の流れが自民党によってバックラッシュしつつあるという結構大きな記事だが、その中に『官邸前の抗議の人も減り、先週3月1日には2、3百人しか居なかった』とあった。
ば〜か。
当日 ボクの目の前には2、3千人はいたよ!要するに朝日のバカ記者は自分が現場へ足を運ばず、警察発表だけを鵜呑みにしているのだ。記者に普通の人なみの知能があれば、警察発表の裏を取るなり、最低でも警察と主催者発表くらいの対比はするだろう(笑)。
先週も朝日はアカデミー作品賞を取った『アルゴ』を反イラン映画と書いていたが、『アルゴ』は冒頭でそもそもの原因はアメリカの横暴にあることをちゃんと描いている。要するに記事を書いた記者は映画を見ていないのだ(笑)

                             
ボクは自分が体験しないことを偉そうに書いたり、他人に言ったりすることはすごく恥ずかしいことだ、という感覚がある。誰もが全てのことを体験するわけには行かないけれど、極力 自分が当事者でいたいと思うからだ。毎日 思うように行かないことばかりだし、失敗だらけだけど、他人任せの人生なんかつまらないじゃないか。当事者なら諦めもつく(笑)。
朝日の記者が全員ダメで無能ではないだろうけど、こんなバカ記事を書いた連中は日本中に恥をさらす、とことん恥ずかしい奴らだ。五大紙なんて、いずれなくなる存在だから目くじら立ててもしょうがないけど(笑)。


                         
さて3.11から3年目、3月9日と10日に反原発のデモ・集会があるので、今週は金曜の官邸前抗議はお休み、だそうだ。ボクは原発に関する自分の意見ははっきりしてるし、他人の意見を聞いてるだけじゃつまんないし、特に○江健三郎のカビが生えたような話は聞いてもしかたないと思うので集会はパスしますが、何か映画を見たあと(笑)、デモに参加するつもり。




                               
さてさて、渋谷のミニシアター、オーディトリウムでドキュメンタリー原発切抜帖

原発切抜帖 [DVD]

原発切抜帖 [DVD]

福島について福島以後の未来についての知見を交換し、イメージを分かち合う』ために、映画とトークショーを組み合わせたimage.Fukushimaのイベント、『映画と紡ぐ、春の七夜』の一つ。Image.Fukushima | イメージ フクシマ
『春の夜』というコトバは朧月夜という言葉にも代表されるように神秘的でほんわかとしたものを感じる。なかなか良いタイトルです。

                                   
原発切抜帖』は82年に作られた作品。唯一の被爆国の日本が原発大国になっていく40年間の過程を切り抜いた当時の新聞記事を小沢昭一のナレーションで語綴ったもの。監督は水俣病を撮ってきた土本典昭氏、監修は高木仁三郎氏と西尾漠氏、音楽は高橋悠治水牛楽団

最初は新聞の切抜と言うと何となくお勉強、知識中心みたいな感じで、なんで映画にするの?と思っていた。だから今までノーチェック。だが実際見てみたら、なかなか感銘深い内容だった。高木氏を始めとした強力なラインナップは伊達じゃなかった(笑)。
●新聞の切り抜き

映画ではこんなことが取り上げられていた。

・原爆が落ちた当時は原爆ではなく新型爆弾とし、『白い布をかぶれ』とか『初期消火が大事』(放射能はどうするんだよ!)と新聞は書いていた。が 終戦の翌日 新聞はいきなり原爆の正体を報じる。つまり当局や新聞社は最初から被爆リスクをわかっていた。
・第5福竜丸は米軍が設定していた危険区域の外で被爆した。その事故がおきてから初めて危険区域が広げられた
原発が日本に導入される際 新聞は原子力飛行機(笑)や世界の恒久平和など文字通りバラ色の未来を煽った
原発が増えてくるに従い、電力会社や通産省のトラブル隠しや開き直りが頻発した
・当時は今のバカ記者と違い、新聞記者が結構 役所や電力会社の嘘を暴いていた。
・実際にアメリカでもビキニでも日本でも多くの人が被爆したが、闇に葬られている

                                          
画面を見ていると、『あ〜あ』という感想ばかりが浮かんでくる。『あ〜あ』は今も昔も同じことが行われていることに対する驚きであり、怒りであり、呆れであり、ほぼ何もしてこなかった自分に対する悔悟だ。
その後に行われたトークショーでも言われていたことだが、この映画のつくり、記事の取り上げ方は大変うまい。
小沢昭一の軽やかだが抑えた語り口と水牛楽団のタイ風のまったりした音楽が一瞬 沈黙するたびに、新たな記事が紹介される。見る側にとっては隙間に忍び込むように入ってくる感じだ。押し付けがましさやお勉強臭は皆無。

こうやって 抑えたり、まったりしたりといった『隙を見せる』ことは大事だと思う。『隙を見せる』ことは、そのスキマに他人を受け入れることだからだ。いくら理屈が正しくとも、ヒステリックだったり、陰鬱だったり、理屈が通ってないような表現(笑)では、なかなか人の耳には届きにくい。デモや集会でヒステリックに叫んでいる人を見るとつい、そう思ってしまう。
と言いつつも、ボクは実生活では隙を作って人を受け入れるような高度なことは全くできません(泣)。
                           
原発切抜帖』は2011年にほぼ30年ぶりにDVDが出たこともボクは全く知らなかった。45分と言うコンパクトな上映時間も好ましい(笑)。マイケル・ムーアの笑いや怒りに裏打ちされたドキュメンタリーもボクは好きだが、抑制&まったり感の、この作品は良くできた傑作ドキュメンタリーだと思った。ちょっとびっくりした、けれど後味は苦かった。



映画が終わった後 哲学者の國分功一郎氏と仏文研究者の田口卓臣氏のトークショー
テーマは『 3.11後のアンガージュマン 』アンガージュマン=社会参加、久しぶりに聞いた〜(笑)
國分氏はTVやラジオなどでおなじみの哲学者、小平市で計画道路の反対運動に関わっている人。ちょうど今週それに関する住民投票条例が可決されたところ。田口氏は宇都宮大の多文化公共圏センターを基点にフクシマの問題にずっと関わっている人。チェルノブイリ事故の(本当の)被害の実態調査やフクシマからの避難者のアンケート調査などを行っている。どちらも五大紙始め、マスゴミが見てみぬふりをしている問題だ。
●田口氏と國分氏

                                     
ロックファンのボクは30年くらい前にブルース・スプリングスティーン原発反対コンサートに出演したのを知り、そのあと高木仁三郎氏の話を直接聞いて以来、原発の存在は理不尽だ、と思ってきた。そのあと、ごく僅かながら自分の出来ることはやってきたつもりだが、事実としてこの30年は原発が日本中に広がっていく30年だった。だから今 デモに行っても、こんな文章を書いていても、『自分がやっていることなんか無駄なんじゃないか』という思いは頭の片隅に常に、ある。だから昨年読んだ小熊英二氏の『社会を変えるには』にしても、誰かの話を聞くにしても、そういうことを考えるための何かのヒントがあればいいな、と鵜の目鷹の目になる(笑)。

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)


國分氏は哲学者らしく、冒頭、こんなことを言っていた。『原発には合理性がない、信仰のようなものだと思っている。だが、人間が何にも頼らないで生きていけるという欲望をかき立てる存在でもある。
これは非常に感心した。人間嫌いのボクは内心、そういうStand Aloneな欲求はすごくあるから、なるほどと思った。だけど、人間のStand Aloneな欲望は原発に限った話ではない、つまり近代の病?(原初的な話かも)かなと思う。
それを受けて田口氏は『日本は社会参加というと社会運動のようなマッチョなイメージがあるが、3.11後 我々全員が既にいやおうなく状況に取り込まれている』と言う。
そうやって、話が徐々に膨らんでいく。
                                        
彼らが言ってたことで面白かったのは、この映画の『新聞記事を切り抜く音が絶妙で、まるで画面に触りたくなるようだった』という指摘。さらに田口氏はこの映画を見るという体験は主体でもなく客体でもなく、受動的でもなく能動的でもなく、プロセスと一体化することであり、それが3.11後の状況にも一致していると言う。加えて國分氏は『我々の民主主義といわれるものは選挙のときだけ立法府に影響力を行使するに過ぎない、行政にチェックを入れられない不完全な仕組みではないか』と指摘する。
それらの言葉をボクなりに翻訳すると、一人ひとりが政治に対しても当事者になるということ、だと思った。それは身体性という言葉でも、実存という言葉でも、無我という言葉でもいいけれど。


終盤 田口氏がご自分が教えている宇都宮大学の生徒、被災地出身のミニスカートを履いた今時の学生(笑)が、原発事故を取り上げた講義を真剣に聞いているということに希望を感じる、と言っていた。(この社会の中で) ボクらは分断されているけれど、そうやって体験を分かち合うことに意味があるのではないかと。


あっという間に過ぎた、充実した春の一夜だった。通り過ぎる一幕の夢。


ボクが住んでいる世の中を、もうちょっとマトモに、つまり理不尽に誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられない社会にするためには、電力会社よりも、経産省よりも手ごわい敵がある。それは『風化』、『忘却』というものだと思う。
                                 
人間って弱い。少なくともボクは弱い。
だから、その敵と戦うためには武器が必要だ。それは自分が体験をする、自分が当事者であるって言うことだ思う。それは映画を見ると言う体験でも良いし、音楽のビートという体験でもよいし、ブログなどで表現すると言う体験でも良いし、デモという体験でも良い
そうすることで持つことが出来る強い想いに、ボクはささやかな(笑)希望を抱いています。3月10日は六本木で『愛、アムール』(麗しのエマニュエル・リヴァ様主演)を見たあと、デモに参加するために日比谷公園に行くつもりです。