特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

それでも、世界へ繰り出そう:映画『最強のふたり』

今日から沖縄にオスプレイが配備され、前日から米軍基地のゲート前を封鎖していた沖縄の人たちが県警に排除されていた。眼を覆いたくなるような光景だった。本土のマスコミはそれほどではないが、沖縄では地元の2大紙、沖縄タイムス琉球新報オスプレイが着くと同時に号外を出していた。ボクは今の沖縄事情は詳しくないから、基地問題をどうのこうの『わかったふり』をする気はない。だけど今回の沖縄の人の反応は今までとは違うようだし、何よりも原発の構造と瓜二つなのが気にかかる。映画『ギリギリの女たち』を見た際も感じたことだが、そこには分断がある。東京とフクシマ、ヤマトンチュとウチナンチュ、都会と地方、電気を使う側と作る側、負担を押し付ける側と押し付けられる側、先進国と発展途上国、植民地と被植民地。
収奪と共犯、二つの関係が入り混じった構造だから、どっちが善でどっちが悪かなんか単純には言い切れない。だが補助金欲しさに原発建設を受け入れるような乞食根性と違って、自分たちの意思に反して大きなリスクがあるものを押し付けられる沖縄の人たちが置かれている状況は他人事ではない。

                                 
先週、東欧から来たIさんと飲んでいるうちにレイシスト(人種差別をする人)の話になった。彼女の大学にも黒人を差別する教授がいたそうだし、こちらからは『日本にも朝鮮半島の人や中国の人を差別する輩は一杯居るぞ』という話になった。男尊女卑だって広義のレイシズムだし。すごく印象的だったのは普段他人の悪口を言わない彼女がレイシズムについて語るときは、『凄く恥ずかしい』という表情をみせたこと。口に出すのも汚らわしい、という感じだった。日本では差別という観点で物事が語られることはあまり、ない(本当は一杯あるんだけど)。だけどグローバルな感覚では石原慎太郎の発言などは本当に『恥ずかしい』ものなんだろうなあ、と、つくづく思った。

                                   
昔 櫻井よしこの講演というものを聞いたことがある。ご存知、ゴリゴリの対中、対韓強硬派の評論家?(コメンテイター?)(笑)。個人的には全く興味がないけれど、ま、大人の事情と言う奴です(笑)。同じ様に佐々淳之の話を聞かされたときはボクは激怒して最前列から途中退席したのだが、この人はセスナ機の運転が趣味だとか、個人的な話を聞くと悪い人ではないと思った。ま、櫻井も言ってることは8割がたは安倍晋三が言うようなことばかりで、いい年こいた大人が真面目に聞くようなものではない(笑)。だけど安倍のようなノータリンならともかく、この人は何でそんなに外国を敵視するのか不思議でならなかった。この人の言っていることは自分の価値観と感情だけで、戦略も金勘定もない。もちろん哲学もない。ただの単純な強硬論は殆ど人種差別のようにすら、聞こえる。
その疑問は彼女の話の途中で氷が溶ける様にクリアになった。(当時の)彼女は中国へ一度も行ったことがないそうだ(笑)。つまり自分の目で見たことがないのだ。
そらあ、全然ダメだ(笑)。誰もが全てを体験するわけにはいかないのだから、誰かの意見を聞いたり、本を読んだり、TVを見たりするのはいい。だけど 最低限は自分の眼で見たり感じてみないまま、強硬論を吐けるという神経が理解できない。無責任であり、無知だと思う。
                         
世の中にはびこる他国や他人に対する強硬な言説は、多かれ少なかれ自分の眼でみたことがないことがその背景にあると思う。もちろん誰もが世界一周をするわけにはいかないし、全ての本を読むわけにはいかない。だけど自分が見たことがないものには、疑問符を持つ、決め付けないで少しは謙虚に接するのが大人というものではないか。人間嫌いでサラリーマン・ニートのボクが言うのもおかしいが、世界は広いほうがいい。ま、ボクは安倍晋三にも野田佳彦にも会ったことないのに、こいつらはバカだと決め付けてますが。そこは自信があります、デス(笑)。



横浜で映画『最強のふたり

パリに住む失業者ドリスは失業給付を受けるため、首から下が不随の大金持ちフィリップの介護に応募する。シニカルで皮肉屋のフィリップは、介護などやる気がなく、求職した実績を作りたいだけのドリスを敢て採用する。『どうせ、すぐ逃げ出すだろう』と言って。介護の経験やスキルなど全くないドリスは障害者のフィリップもまったく特別扱いしない。やがて二人はお互い意気投合していく。
                                       
実話を基にしたフランス作品。 暗くなってしまいそうなテーマをコメディという形にしているのが大ヒットしている秘訣だろう。この映画は介護の大変さや障害者の性、フランス社会の格差、差別まで目を背けずに、軽やかに描いている。こうやって書くのは簡単だが、脚本にしろ演技にしろ、説教臭くなく、こういうことを描くのはかなり大変だとおもうけれど、この映画はそれに成功している。



まず、介護を担当する黒人青年ドリスというキャラクターが面白い。妻と子供を半年もほっぱらかしていた前科持ちだが、ユーモアがあって、世慣れていて、プラグマティックで、大金持ちのフィリップとは全く対照的に描かれている。フィリップにマリファナは吸わすは、一緒に警官をだますは、のやりたい放題。それを演じた男優オマール・シー(ミック・マックに出ていたそうだ)が各種映画賞候補になっているのもうなずける。 実話と異なり、ドリスを黒人にしたのも良かったかも。ボクはパリの下町に暮らすドリスの出身がチュニジアなのかセネガルなのか、画面を見ながらイマジネーションが凄く刺激された。前述のIさんはドリスがまくし立てる街中のスラングがリアルで面白いと言ってたが、そこはボクにはぜんぜんわからなかった(泣)。
●怪しいふたり

俳優さんだけでなくアース・ウィンド&ファイアの音楽とか色々な楽しみ方がある映画だが、ボクはフィリップというキャラクターにすごく惹かれた。この映画の中で彼はクラシック音楽と現代美術に殆ど耽溺している。勿論カネと暇があるからではあるのだけど、本当の理由は肉体的、金銭的な欲望や名誉や権勢などの世俗的な欲求が枯れつつあるフィリップには、本質的なものしか興味がなくなっているからだ。一文の得にもならないフィリップの嗜好を不思議がるドリスに、彼は『自分が死んでも、芸術は残っていくからだ』と言い放つ。
これからボクも歳をとって死んでいくわけだが、できれば最後はこういう風になれたらなあ、と思った。
●デートの支度をする偏屈男

だがフィリップも全ての世俗的な欲求が消えうせたわけではない。妻を亡くした彼は口述筆記で女性と文通をしている。顔も見たことがない彼女にロマンティックな詩を送るだけだ。見かねたドリスが強引に彼女と会う機会をセッティングするが、いざとなるとフィリップは逃げ出してしまう。障害を負っている自分を見せる自信がないだけでなく、世の中に再び出て行くこと自体に勇気が持てないのだ。

                             
そんなフィリップは終盤 敢てドリスを解雇する。そこから本当に二人の絆が深まっていく。その展開、そしてエンディングで映画の中の二人が実在の二人に置き換わるところは本当にお見事!
                                      
                                                
良くも悪くもわかりやすい作りで多くの人に受け入れられる作品だろう。だけど商業主義に走るのではなく、笑いの中に色々な大事なものをちりばめられている。見る人によって、色んな受け取り方ができるだろう。こういうのを見る価値がある映画って言うんだ!