特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

大人になりましょう:映画『スーパーチューズデー』

今日は暖かくて、文字通り春のうららかさを体感することができた。ボクは大声で放歌高吟したりゴミを散らかすような酔っ払いは大嫌いだ。が、去年のことを考えれば、今年は花見で酔っ払って病院送りになる人が例年より多い、というのは何となくわかる気はする。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120409-00000009-mai-soci
●サクラも美しい

          
         

民主党政権になってから特に強く感じることがある。政府が国民に対して『強圧的ということだ。増税にしても原発に関することにしても国民に対してきちんと説明することが殆どない大飯原発の再稼動の件でも具体的な安全基準も対策もまともに示してなければ、そもそも稼動が必要だという信頼できる根拠すら示していない。再稼動を無理矢理強行しようとする野田と言う総理大臣は国民の敵、とすらいいたくなってしまう。いいかげんな情報を並べ立てて結論だけ国民に押し付けるのは、北の将軍様と大して変わりはない
そういう点は民主党だけでなく自民党だって違いはないし、新人への訓示で『公務員は国民に命令する立場』とのたまった橋下も同類なんだろうけど、共通するのは人間的に幼い、未成熟な人間が今の世の中を動かしている、ということなのだろう。
もちろん投票している人間が居るからそういう連中がのさばっているわけで、考えると暗い気持ちになってしまう。

                                            

そういうことを考えながら、新宿で映画『スーパーチューズデー
車売却で高く売るコツ
米大統領選挙を舞台にした政治ドラマ。ジョージ・クルーニーが監督、ライアン・ゴズリングが主役を演じている。他にもフィリップ・シーモア・ホフマン、『レスラー』に出ていたエヴァン・レイチェル・ウッドマリサ・トメイなど渋くて豪華なキャスト

実生活でもリベラルで知られる監督のジョージ・クルーニーは理想家肌のリベラルな大統領候補を演じている。ライアン・ゴズリングは彼に心酔する凄腕の選挙参謀民主党大統領候補選の結果を左右する激戦州オハイオの投票が迫ったある日、ライアン・ゴズリングは相手方の選挙参謀から呼び出しを受ける。そこから両陣営入り乱れた陰謀合戦が始まる、そんなお話。

台詞が多い室内劇みたいだなあ、と思ってみていたら、実際 戯曲を元にしているそうだ。原作を書いたボー・ウィルモンという人はちょっと前の民主党の大統領候補ハワード・ディーンのところにいた人。派手なところは無いけれど、よく練られたプロットと役者さんの演技を楽しむような映画だ。

ジョージ・クルーニーが大統領候補って言うのは本当に様になっている。ロマンスグレーのヘアに合わせたようなグレーのスーツを着こなして、控えめなジェスチュアと力強い演説をしているところはまさに理想的な候補者像。ボクでも絶対投票してしまう(笑)。
●この格好良さなら、誰でも投票するわ(笑)


ライアン・ゴズリングは昨年の映画『ブルーバレンタイン』のダメダメ男の印象が強いが、ここでは頭が切れて社交的、やや自信過剰と言ったキャラクター。彼もかっこいい(笑)。
●なんだ、イケメン君だったんだ。せっかくダメ仲間だと思ったのに(笑)
      

その彼が陰謀に追い詰められて、変わっていく。理想家のように思えた大統領候補、信頼していた自分の上司、敵陣営、ジャーナリスト、その実像や本音が明らかになるに連れて、彼の表情からは笑いが消え、硬い仮面を被ったようになっていく。


そういう展開だけ読むと『スーパーチューズデー』は薄汚い現代政治の実像を告発したような映画のように見える。もちろん そういう面はある。汚い裏取引、勝つためには手段を選ばない選挙関係者、候補者の上っ面しか見ない有権者。橋下や石原慎太郎森田健作を当選させてしまう日本と事情はあまり変わらない。

                             
だが、この映画にはもう一つ大きなテーマがある。
これは主人公が大人になる物語だ。現実に物事を実行して結果を出すとしたら、自分の感情をコントロールして、ある意味 冷酷にやっていかなければならないときもある。色々な考え方、利害の異なる人々の中で結果を出していくには必ずしも良い人ではいられない。かといって3流、4流の革命家が良く言うような『目的が手段を正当化する』もうまく行かないのも多くの歴史が証明している。唯一言えることはただ、結果が全てを正当化する、のだ。

もちろん東京電力のように電気代値上げで自分の結果責任を他人におしつけるようなブラック企業が志向する『結果』と、この映画の大統領候補や主人公が当初目指していた長期的・社会的利益に則った『結果』とは意味が丸っきり異なる。この映画の主人公や大統領候補がどちらを選ぶかはわからない。いずれにしても結果を優先させることを選んだ、この映画の主人公や大統領候補が薄汚れた存在だとは、必ずしもボクは思わない。 結果を出すためには時には、心を凍らせなければならないこともある、ただそれだけだ。

ラストシーンでのライアン・ゴズリングの氷のように無表情な顔はその矛盾と悲しみを雄弁に表現しているように見える。テレビカメラの前で凍りついたような彼の顔は、冷たい現実の世界に彼が一歩 踏み出したから、つまり彼が大人になったから。ボクにはそのように思えた。


                         
個人的には『世の中は結果が全て』だとは思わないし(だから映画を見るのだ!)、できればそういう世界とはあんまり関わり合いになりたくない。
大人になりましょう。仕方がないから。ってとこかな(笑)。

野宮真貴さまもそう仰っている