特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

バウハウスと穴子

上野で引越し業者の選び方を間違えると大損してしまう訳
バウハウスの大掛かりな展示会は95年のセゾン美術館以来。
第一印象は、やや迫力に欠けるかなという感じ。この美術館の地下展示室はスペースに限りがある、まるで穴子の寝床みたいになっている。その地下から3Fへ登っていくという順路だ。そうなると、セゾンのように平坦なスペースにドカーンと建築模型が置いてあった展示に比べて、建築とか家具とか、がさが張るバウハウスなんかの展示ではどうしても迫力に欠けてしまう。展示者側もそういうことはたぶんわかっていて、ワルター・グロピウスの校長室の実物大の再現など、それを補うような工夫はされていた。実際、この校長室は、それまで余り注目されていなかった色彩計画への着目もあって、かなり面白かった。だが展覧会全体としては若干せせこましい感じは受けてしまう。
 今回バウハウス・ダンスというものを始めて見たが、これは大変興味深かった。人間を一定の型にはめる不自由さがあるんだけど、同時に様式美がある。その様式美が未完成、試行錯誤なところがさらに、(男にもある)母性本能を刺激する(笑)。New Orderの名曲’’TRUE FAITH''のプロモーションビデオはこれがモチーフだったということを知ったのも収穫。
 展示がバウハウスの黄金期であるデッサウにほぼ限られれたのは、そういう企画だから仕方がないとは言え、ちょっと残念だった。バウハウスの現代性は「直線を基調としたデザイン」といった表層的なものではなく、ナチスに邪魔にされるような思想性=個人の日常生活の様々な要素を等価に捉える視点、にあると思う。だが黄金期と言われるデッサウ中心の展示だと、どうしてもそういうコンテキスト的なことは描きにくくなる。絵画から建築、工業製品まで、焦点がぼけやすい総合芸術的な展示ではコンテキストも必要かつ重要なファクターだと思う。そういうところが無視されるのは主催に産経が入っているからかね?
 一方 デッサウ期ならでは?の教育用の教材、スケッチや課題などの展示はとても面白かった。完成作品に比べて身近であるだけ、当時の日常と理念が、現代により近づいてくる。そういうところへの着目はさすが教育機関の芸大(笑)、セゾンとはえらい違いだ。

 『日常生活のための、機能的でデザインに優れた工業製品を大量生産し、安価に大衆に提供する』というバウハウスのコンセプト(のひとつ)は、「製品」ではなく「商品」(カネ)が溢れ返る今こそ意味があると思う。前回触れたCSRのように「世界を役立たずの醜悪な代物や不幸せな人々であふれさせ、国を経済至上主義にしたクズ思想」(J・ダイソン)が氾濫しているのだから。

逆風野郎 ダイソン成功物語

逆風野郎 ダイソン成功物語


帰りは神宮前のラ・パタータ。この季節のスペシャリテ穴子のスモークとカラスミのパスタを何年ぶりかに食べたが、実にしっかりした穴子で、一口食べて思わず「うまい」。ちょっと辛かったので、翌日喉が渇いたが。