特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

生への希求@不条理な世界:映画『この国の空』と映画『リアル鬼ごっこ』

敗戦記念日の15日放送のTBS報道特集戦争を忘れた東京の70年・ドイツと中国で考える被害と加害』は出色でした。東京大空襲重慶爆撃、ドレスデン爆撃という民間人を無差別に殺害した3つの戦略爆撃を取り上げた2時間の特集です。取り上げられていたこと、東京大空襲が公的には殆ど語り継がれていないこと、政府や都は空襲をなかったことにしたがっているという指摘、日本軍による重慶爆撃の被害者のインタビュー、ドレスデン爆撃の語り継がれ方など、どれも勉強になりました。犠牲者の名前の記録すら終わっていない、そして未だに公的なモニュメント一つすらない東京大空襲にしろ、重慶爆撃にしろ、自分も含めて日本人が戦争に真正面から向き合っていないことを思い起こさせるものでした。特に一晩で約10万人が亡くなった東京大空襲で埋葬場所がなく、錦糸町の駅前の公園に1万数千人も死体を埋めたことなどボクは全く知りませんでした。それでも重慶爆撃の被害者を東京大空襲の被害者会が支援していること、ネオナチによるドレスデン爆撃の被害宣伝に実際の被害者たちが猛烈に抗議していること、など希望を感じさせる内容もありました。
戦争の残酷さは自分が被害者になるだけでもなく、加害者にもさせられてしまうところでもあると思います。この時期になると戦争被害を訴える声がマスコミに並びますが、それだけでいいのだろうか、と思ってしまいます。戦争に正面から向き合わないとまた同じことが起きるのではないか、という気がしてなりません。
                                               
●8月15日、天皇のスピーチを伝える英ガーディアン紙のtweet天皇安倍晋三より深く謝罪の意を表明した(urlをクリックすると記事ヘ飛びます)。

●毎度お馴染み日本人ジョーク
                                       
●ついでにもう一発。『GDP1.6%マイナスでも、甘利大臣「景気は回復傾向」。アベノミクスも敗戦末期みたいになってきました。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20150817-00000018-ann-bus_all
                                          
じゃあ戦争に向き合うとはどういうことなんでしょうか。戦争に行ったことがないボクが言うのもなんですが、我が身に置き換えて考えることはその第1歩でしょう。政治家や軍人のやったことを考えるのも必要ですが、自分だったらどうするか、ということを考えるのはもっと大切じゃないでしょうか。

この映画はそういうことを描いています。新宿で映画『この国の空

                                                  
昭和20年、終戦直前の東京。母(工藤夕貴)、叔母(富田靖子)と共に暮らす19歳の里子(二階堂ふみ)は空襲に恐怖しながらも、結婚適齢期なのに結婚など望めそうもない状況に焦燥を感じていた。周囲に全く若い男性が居ないのだ!そんな中、里子は妻子を疎開させ一人で生活している隣人の銀行員、市毛(長谷川博己)の身の回りの世話をするうちに彼への思いが募るようになる。
                                                    
ヴァイブレータ』などで知られる脚本家の荒井晴彦が監督を務め、芥川賞作家・高井有一谷崎潤一郎賞受賞作を映画化したもの。全共闘世代の古臭い感覚は嫌だなあ〜と思いながら(笑)、それでも二階堂ふみちゃんが出ているので見に行きました。

主人公たちは昭和30年3月10日の東京大空襲で下町が焼け出された直後、被害が大きくなかった山の手、杉並の街で暮らしています。若い男性は徴兵で、子供は学童疎開で、街には居ません。街に残っているのは女性と中高齢の男性、疎開できる当てがない人、それに徴兵検査に失格した人だけです。とにかく活気がない街です。
●若い男が居ない町。大荷物を持っているのは疎開をする人。

                                             
映画はお話を進めるより、一般の人々の戦時下の生活を描くことに執拗になっているように見えます。庭にたいして役に立ちそうもない防空壕を掘り、ガラス窓に爆風による飛散除けの紙を貼る。政府は国民は一丸となって防火活動に励めと言うけれど、ナパーム弾をバケツリレーで消火することなんかできないのは庶民にだってもう判っています。しかし、許可がなければ疎開は出来ません。定められた住所に住んでいなければ命の綱の食料配給が受けられないから、勝手に逃げてしまうことも難しい。もちろん、戦争に勝てるわけがないとか、死にたくないなんてことは口にすることができません。町会、隣組、近所の目がお互いを監視しています。薄暗い電気が夜遅くまでついているだけで、近所から『電気を消せ』という声がかかります。
●どの家もガラスが爆風で飛び散るのを防ぐため、紙で上張りをしています。

                          
そんな暮らしの中で、人々は『死』を身近に感じています。下町、横浜、八王子、良く知っている街がどんどん焼かれていきます。夜になる度 次は自分たちの街かと雑音だらけのラジオの警報に耳を澄ませる毎日です。夜になると銀色のB29が飛んできて、どこかの街が赤く燃えています。仮に空襲の被害を受けなくても、沖縄の例があります。本土決戦が始まれば、いずれにしても自分たちが死ななければならないことは皆 判っているのです。この時期の日本政府は国民ごと集団自殺しようとしているようなものだったんだ、と思いました。
                                           
主人公の里子は本当はフルタイムの仕事をしたかったのですが親に『女が仕事をするなんて、みっともない』と止められて、今は町会で事務手伝いをしています。疎開の許可証などを出す仕事です。仕事には真面目に取り組んでいますが、いつか誰かと結婚するしか前途に夢らしきものは見えません。でも、誰もがいつ死ぬかわからない。それ以前に街に若い男がいない。そんな時に結婚がどうのこうのなんて夢物語にしか思えないのです。二階堂ふみちゃんの日本的な顔立ちとやや骨太の肉体が、その年頃の少女の焦燥感を表現するのにピッタリ似合っています。彼女が体現する、その年代なら誰でも持っているであろう生命力は戦時下の空っぽの街には奇妙なくらいに不似合なものに見えるのです。
[[●自らを持て余す主人公]]

                                  
8月が近づくにつれ、食料は減ってきます。それに従い人々の暮らしも荒んでいきます。田舎のお百姓さんから物々交換で食べ物を入手するために1日がかりで出掛けなければなりません。親子、親戚の間でもぎすぎすした空気が流れます。空襲の日付まで細かいディテールに拘った演出は、戦時下の普通の庶民の生活のみじめさを観客に思い知らせます。
●広島に新型爆弾が落ち、東京にも落とされるのではないか、という噂が広まります。空襲警報を聞いて白い布を被って新型爆弾の被害を防ごうとする里子たち。


里子は次第に隣家の男に惹かれていきます。妻と子供は田舎へ疎開させている銀行員の男です。金融機関の職員は戦時下のインフラを維持する基幹要員として疎開することが許されなかったようです。大正期や昭和初期の写真を見ると時折、西洋風の彫りが深い顔立ちの人が居ますけど、長谷川博己の容貌はそういう男の姿を思い起こさせます。
●昔の日本には時折 こういう容貌の男が居ました。

●買い出しに行く彼女の服は男物の服を仕立て直したもの。男は国民服

妻子がいる男に惹かれてしまう里子は一見 愚かなように見えます。でも、それが仕方がないことであるのも映画は丹念に描いていきます。田舎へ買い出しに行った母親との会話のシーンが素晴らしい。まだ若い未亡人の母親だって判っています。結局 誰もが明日をも知れぬ命です。本土決戦が始まれば、皆、死んでしまう。つい、死への怖れを口にしてしまう男に、里子が『絶対 死なないって言って。戦争には行かないって言って。』とつかみかかるところには文字通り鳥肌が立ちました。そして、涙が出ました。まるで殴りかかるように感情をぶつけてくる、この人の演技には毎度のことながら恐れ入ります。
                                                                                                 
女性像が少しステレオタイプだったり、肝心な場面での音楽の使い方など、やっぱり演出が古臭いところが多少あったのは残念でしたが(笑)、押しつけがましくない静かな語り口には好感が持てます。この映画は戦時下の庶民の暮らしと哀歓、銃後の人間にとっても戦争は如何に残酷なものか、如何にバカげたものかを観客に思い知らせることに成功しています。誰も死なない戦争映画です。ですが、リアルです。切実です。
エンドロールでは二階堂ふみちゃんが朗読する茨城のりこの詩『私が一番きれいだったとき‚킽‚µ‚ªˆê”Ô‚«‚ê‚¢‚¾‚Á‚½‚Æ‚«iˆï–؁@‚Ì‚èŽqjが流れます。この映画を表現するのにこれ以上のものはありません。まさに、その通りです。戦争は残酷なものです。どんな理由があろうと、戦争に巻き込まれることそのものが、普通の庶民にとってバカげたことです。と、同時に戦争と言う不条理な状況の中でも生を希求する気持ちは消えることはないのかもしれません。観終って深いため息しか出ませんでした。
                                    
<わたしが一番きれいだったとき>
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
(中略)
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね


     
                                                                                  
もう一つ、こっちはおまけ(笑)。『新宿スワン』、『ラブ&ピース』と毎月新作が公開されている園子温監督の新作『リアル鬼ごっこ

ベストセラーになった同名ホラー小説があるそうですが、それを一切読まずに(笑)監督がオリジナル脚本を書いた作品。女子高生が正体不明の敵からひたすら逃げまくる、というもの。

トリンドル玲奈篠田麻里子、真野真里菜というヒロインを起用したのはいいけど、血がドバドバのスプラッターものじゃないかとビビッてたんです。華やかな女優さんを使ったからこそ、園監督はスプラッターものを作りそうだもん(笑)。ボクはホラーとか怖いものは基本的には見たくないので(笑)、半分スルー予定でした。が、予想は良い意味で裏切られました。


トリンドル玲奈演じる女子高生の主人公が修学旅行へ出かける途中、謎の突風に襲われてバスごと生徒たちの胴体が真っ二つになるところから始まります。いきなり あたり一面 血まみれです。主人公は謎の突風から逃れようとひたすら走って逃げ続けます。その彼女が途中で篠田麻里子、真野真里菜という違う女性・違う世界に入れ替わって逃げ続けるという物語です。
原作は理不尽に人々が殺されるホラーだったようですが、この映画のほうは『不条理』がテーマです。女子高生たちが謎の突風に襲われると言うお話も、ウエディングドレス姿の篠田麻里子が周りの人々をぶち殺しながら逃げ続けるお話も、陸上選手の真野真里菜が謎の着ぐるみに追われながらマラソンを続けるのも、不条理なお話です。お話の途中で園監督は親切に『不条理に負けるな』という台詞を挿入しています。もちろん戦争にしろ、原発にしろ、国民への説明能力を欠いた総理大臣にしろ、現実は常に不条理な要素をはらんでいるもの、ではあります。
●三人のヒロインの話がシンクロしながら交錯します。



                            
きっと監督はスペインの映画監督ルイス・ブニュエルみたいな作品をやりたかったんでしょう。わざとチープにした残酷場面も不条理な場面設定も、どこか可笑しさが残っています。その可笑しさが日常生活に潜在的にある不条理さを浮かび上がらせます。まるで『ブルジョワジーの密かな愉しみ』に『アンダルシアの犬』のえぐい描写を加えたみたいです。


ただ、不条理劇としての完成度はまあまあと言ったところでしょうか。 有名タレント3人のヒロインはとても可愛かったし、他の出演者も殆ど若い女性だけ、という園監督の発想も良かったと思います。また唯一の男性出演者、女性に大人気だと言う斉藤工のブリーフ姿も面白かった。そういう出演者目当てに来るであろう観客に、ブニュエルみたいな不条理劇をぶつける、という監督の冒険は立派です。単なる嫌がらせかもしれませんが(笑)。
ただお話のオチがパラレルワールド?未来の世界?というのが良くわかんない。監督が中途半端にわかりやすさを意識したのかわかりませんが、へんなオチをつけるくらいなら、不条理で徹底したほうがブラック・ユーモアとしてもっと笑えるものになったと思います。


上映後 3人のヒロインが入ってきて舞台挨拶が始まりました。全然 そんなこと知らなかったので驚きましたが、少し得をした気分ではありました。生で見る女優さんたちはやっぱり可愛い(笑)。これも生の希求か(笑)。