特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

底知れない沈黙:映画『ルック・オブ・サイレンス』

お盆休みになって暑さは多少しのぎやすくなってきました。扇風機があれば何とかクーラーなしで過ごせます。今週は国会&官邸前の抗議に行くのはお休みしました。最近 これらの件では自分の中でもちょっと頭に血が上っていると思ったので(笑)、少しクールダウンしようと思ったのです。川内原発が再稼働してしまったのは返す返すも残念ですが、動いたらまた止めればいい、と思います。

                                                                                       
8月15日の『終戦』記念日が近付いてきたということでTVでは色々特集が組まれています。どことなく、神妙な、しめやかな雰囲気です。NHKスぺシャルだけはいくつか見ました。特攻が際限もなく拡大された話では軍の高級官僚の無責任な言い分には腹が立ちましたし、従軍看護婦が5万人も動員され大勢の人が犠牲になったという話は知りませんでした。福島の原発事故も川内原発の稼働も新国立競技場もそうですが、上層部が責任を取らないのは今も昔も変わりませんリーダー層の無責任さこそがこの国の伝統なのかもしれません
                                      
ボクはこの時期 濫発される終戦』という言葉に対して感じる違和感が年々大きくなってきました。まるで戦争が自然に終わったみたいです。正確には『敗戦』です。理由はさておき、日本人が戦争を自発的に起こして負けたのです。玉音放送に『敗戦』と言うコトバが入ってないのも最近気が付きました。『終戦』という言葉には、戦争という事実をごまかそうとしているのではないか、そういう意図すら感じます。『終戦』と言うコトバを無自覚に使うことで日本人がなぜ戦争を起こしたのか、一部の指導者層はなぜ戦争を起こし国民はそれを支持したのか、という事実が有耶無耶になってしまうそれが将来の武力紛争や戦争につながるのではないか という気さえするのです。
それにしてもNHKスペシャルで当時の体験談を語る人たちは殆どが90代以上でした。体験者の話はもうすぐ聞くことが出来なくなるのかもしれません。深い嘆息が残ります。
                                                                                                  
青山で映画『ルック・オブ・サイレンス

昨年見たオッペンハイマー監督の前作の『アクト・オブ・キリング』は驚くべき話でした映画『アクト・オブ・キリング』と読書『九月、東京の路上で』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)
60年代インドネシアで9月30日事件と名付けられた大虐殺がありました。軍がクーデターをおこし初代大統領のスカルノデヴィ夫人の旦那)を追放、大統領派と共産主義者、それに華僑、要するに邪魔になりそうな人間を地元の自警団やヤクザにまとめて殺させたという事件です。100万人規模の大虐殺であったにもかかわらず加害者たちは全く罰せられず、地元では英雄として称えられています。その加害者たちがアメリカ人監督のカメラの前で虐殺を嬉々として再現して見せる、というドキュメンタリーはアカデミー賞候補になりました。


今回はその続編です。今度は被害者側にスポットがあてられています。主人公は大虐殺で兄を殺された眼鏡屋さん。老眼鏡を作るという口実で、今は社会の有力者になっている加害者たちに近づきます。加害者たちはオッペンハイマー監督とは前作の撮影で顔なじみです。虐殺の加害者たちはアメリカ人監督の紹介ということで快く眼鏡作りに応じます。彼らは自分たちは共産主義者と闘ったと思っているので、反共国家のアメリカ人は味方だと思っているんです。主人公は加害者の眼鏡を調整しながら、当時のことを尋ねていきます。
                                  
●主人公は出張眼鏡屋さん。兄を大虐殺で殺されました。                        

                                              
主人公は加害者たちに復讐をしようというのではない、と言います。『どうやって兄が殺されたのかを知り、加害者たちがどういう気持ちなのかを知りたいだけだ』というのです。
●加害者から話を聞く主人公

                                 
最初 加害者たちは虐殺の時の様子を気楽な調子で主人公に語ります。どうやって殺したか、何人くらい殺したいか。民間がやったことなのでちゃんとした武器は使われていません。鉈や針金などを使った恐ろしく残酷な手口なので観客にとっては耳をふさぎたくなりますが、加害者たちにとってはそうでもないようです。主人公の兄は散々暴行されたあと、鎌で性器を切り取られて殺されたそうです。実行犯はそれを笑いながら自慢します。だが主人公が自分の身元を明かすと一変します。                            
うろたえる者、主人公を恫喝しようとする者、怒りだす者、言い訳を始める者。今までの自慢話は吹っ飛び、心理的動揺を隠せません。それを見る主人公の表情。表立っては変化はありません。表情は変わらないけれど、相手を見る彼の視線の鋭さが印象に残ります。でもそれは単なる憎しみだけのようには見えないのです。
●虐殺に加わったことを自慢げに話す加害者たち

                                  
主人公は妻や母からは、加害者たちを訪問するのは止めるように言われます。加害者は有力者も多いし、その中には自分たちの親せきまでいる。でも主人公は加害者たちを訪問するのを止めません。その姿はまるで犠牲者の弔いを続けているように見えます。
●主人公と母。彼女は息子をなぶり殺された被害者でもある。

                                     
先日のTBS報道特集インドネシア慰安婦のことが報道されていました。インドネシア全土で20000人も居たという調査もあるそうですが、政府はその存在を認めていないため、日本からの謝罪も補償もなく放置されています。慰安婦の人たちは過去を隠して、インドネシアのコミュニティのなかでそっと暮らしていたそうです。日本では殆ど報道されていませんが(ボクも知らなかった)被害を受けた側は当然忘れられないでしょう
それと同じ構図がここにあります。大虐殺のことをインドネシアの政府は認めていません。この映画で描かれているように虐殺に関わった人間は議員や政府や民間の要職についていたります。その一方 被害者や被害者の家族は謝罪も補償もうけられないまま、ひっそりと暮らしてきました。加害者側は忘れていたり、自分の都合の良いように記録や記憶を改変しています。でも被害者は忘れることはない

エンドロールに監督以外のスタッフのクレジットがAnonymus(匿名)という文字がずら〜っと並ぶのは圧巻です。現地の協力者は名前を出すことが危険だからです。大虐殺がインドネシアの人たちに与えた傷はそう簡単に癒えないのでしょう。他人事ではありません。アメリカは大虐殺を意識的に見て見ぬ振りをしてインドネシア政府を支援したし、日本だって西側陣営として間接的に加担したわけですから。
                                                                                                                         
前作『アクト・オブ・キリング』はかっての行動を自慢していた加害者がとうとう自分自身に耐えられなくなるところで終わりました。誰もが加害者になるかもしれない、ということを感じさせるものでした。続編の『ルック・オブ・サイレンス』では主人公の深い深い慟哭が伝わってくる静かな、静かな映画です。事件の理不尽さと悲しみが観客の心に突き刺さります。ボクはこの映画を見てから1か月くらい経ちますが、時間が経てば経つほど印象が強くなってきた気がしています。この映画を観た観客の前には底知れぬくらい深い沈黙が広がっています。こういう作品も珍しい。前作同様、必見のドキュメンタリーです。