特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

知的で過激、そしてシャイ(笑):相対性理論『幾何1』と映画『私はロランス』

最近あった、阪急・阪神ホテルのレストランの表示偽装にしろ、みのもんたの辞任会見にしろ、相変わらずインチキがまかりとおってます。インチキというのは当事者だけではなく、いわゆる『世間の側』です。前者は表示ミスと言い張っているがブラックタイガークルマエビに言い換えるなんて、どう考えても偽装に決まっているのをマスコミは全然追求しようとしません。みのもんたの話も30過ぎた子供の責任をなんで親が取らなければならないのか、さっぱり理解できない。ボクはみのもんた大嫌いなのでTV画面から消えてくれるのは嬉しいけど、そんな理由でやめるほうがおかしいにきまってます。
論理的に意味を突き詰めようとせず、『世間を騒がせた』みたいな曖昧な理由、いわゆる『空気』で物事が決まっていくのは戦前と全く変わらないです。今の日本は相変わらずのファシズム社会じゃないか。

                                            
                                             
さて台風が近づく金曜の夜、官邸前抗議をパスして出かけたのは お台場で相対性理論の自主ライブ『幾何1
相対性理論は4人組のロックバンド。ヴォーカルのやくしまるえつこ九竜半島からセンター街へ旅しながら世界の終わりと地球征服を夢見ると言う不穏な歌詞をロリータ・ヴォイスで囁き、ジャズやクラシックがバックボーンであろう腕利きミュージシャンが3コードのポップミュージックに載せて演奏する、という非常に癖があるバンドです(笑)。覆面バンドということでマスコミに写真を出さないのがポリシーだそうなので世俗的には無名ですが、実はメンバーが桃色クローバーZやSMAPに曲を提供したり、求人雑誌ユニクロのCM音楽を担当したり、TV番組のバックグラウンドで1時間ずっと流れていたり、今やこのバンドを耳にする機会は結構多いです。
ムーンライダーズが活動停止中の今、知的で過激で、そしてシャイな音楽(笑)は、このバンドしかない、って感じです。


この日は新作『TOWN AGE』を引っ提げてのライブ。

TOWN AGE

TOWN AGE

開演前の会場にずっと、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコの『ジ・エンド』が流れていたのは笑いました。そういえば今日ルー・リードが亡くなっちゃったな(泣)。新譜のラスト曲『たまたまニュータウン』のイントロがテープで流れる中、メンバーが登場。やくしまるえつこ嬢はラーメンの丼みたいな帽子と黒いマントを被って登場。

<セットリスト>
1.キッズ・ノーリターン
2.人工衛星
3.地獄先生
4.YOU & IDOL
5.救心
6.辰巳探偵
7.ムーンライト銀河
8.帝都モダン
9.BATACO
10.(恋は)百年戦争
11.ほうき星
12.上海an
-アンコール-
13.Q/P
14.気になるあの娘
15.たまたまニュータウン

                                           
曲名を見るだけでも一癖も二癖もあるでしょう(笑)。『たまたまニュータウン』で始まり、同じ曲で終わるシンメトリーな構成。前半はちょっともたつくところもあったが演奏は相変わらず、死ぬほどうまい。疾走するけどタメのあるドラム、バイオリン奏法を多用するベース。環境音楽みたいなギターに、やくしまるが時折入れるノイズ。これでポップなメロディをやってるんだから、かなり人を舐めてます(笑)。CMで使われた『上海an』(バイト探しは、って奴)はCDとは全然違うハードな演奏にやくしまるの縦笛が加わるアレンジに変わっていたし、『ムーンライト銀河』や『たまたまニュータウン』で繰り広げられた地獄のような(笑)10分以上のインプロヴィゼーションは恰好よかったです。言葉遊びやロリータヴォイスやポップなメロディの裏で、実は不穏なことをやっているというバランス感覚が、日常のすぐ向かう側にある狂気を体現していて、やっぱりいいなあと思います。久々に生演奏を聞いて楽しかったです。

                     

                                                        
さて感想を書くのが遅くなってしまった、新聞などの映画評で絶賛されているカナダ映画わたしはロランス

1989年のカナダ、モントリオール。大学で文学を教えるロランス(メルヴィル・プポー)と新進女優のフレッドのカップルが暮らしていた。ロランスが35歳になったある日、彼は『偽っていた自分を捨てて、本当の自分になりたい』と言って、女装を始める。彼は性同一性障害だったというのだ。混乱し、困惑しつつも、ロランスを受け入れるフレッド。周囲の偏見に囲まれながらも新たな暮らしを始めた二人の15年を描く物語。
                                                                                                    
監督は日本では無名ですが、今までの作品がすべてカンヌに出品されているという若干24歳のグザヴィエ・ドラン、全米公開のプロデュースはガス・ヴァン・サント監督が買って出たそうです。どうでもいいことだが二人とも同性愛者。
                                            
仲睦まじかったパートナーが突然 自分と同性だったことを告白してきたらどうするか。映画の中でフレッドは混乱するが、観ている側も混乱する(笑)。だが混乱に慣れてくると、描かれているのは『愛の物語』であり、『旅の物語』でもあることがわかります。
ロランスは自分が女性であることを自覚しても、フレッドへの愛は変わりません。フレッドも困惑しつつも、依然ロランスに惹かれる自分に逆らえないでいる。だが周囲の目は必ずしも温かくない。女装を始めたロランスは職を失うし、親からも冷たくされるし、酒場では男に絡まれたりします。カナダというと寛容な雰囲気だと思っていたが、そうではないことをつくづく感じさせます。それでもロランスと母親(ナタリー・バイ)との母と息子との関係性が、母と娘として新たに結び直されていく過程は感動的です。
                                
●男時代のロランス

●女装して教壇に立つロランス。似合わない緑のジャケット。このやるせない気持ちはボクもすごく良くわかる!

この映画では音楽の役割も大きいです。80年代後半から90年代にかけてということで、ヴィサージとか、その時代のエレクトリック音楽が多く使われている(24歳の監督がどうして知ってるんだ?)。すごく新鮮!

Visage

Visage

独特の映像表現もこの映画の見せ場です。冒頭 カップルのベッドに朝陽が差し込み、部屋のホコリが大写しになるところに始まり、中盤 青く寒々しい空から赤い服が一杯降ってくる幻想的なシーン、終盤の落ち葉が舞い散る秋のシーンと印象的で美しいシーンがいくつも描かれています。
●各国でのポスター。この映画の溢れるようなイメージが伝わってくる。

                                         
                                     
彼は女になりたかった。なお且つ彼女を愛し続けたかった。
ここで描かれているのは、世の中の障害にもめげずお互いの全てを許しあうような安っぽい純愛(笑)なんかじゃないです。ロランスもフレッドもエゴイスティックだし、時にはお互いを傷つけあう。
愛は自分の愚かさやエゴを変えてはくれない。まして周囲の偏見や差別を変えてくれやしない。だが、それでも残るものがある。二人は多くの人と別れ、出会い、闘い、自分を見つけようとします。10余年の歳月を経て、二人の間に残っているものは何なのか。
激しい秋風が吹きすさぶ様を描いたあと、映画は当初描かれなかった二人の出会いのシーンにたどり着きます。最後に残ったものはこれだったのか。それは狂気にも諦観にも似た、だけど、どこか懐かしい穏やかな時間でした。
    
                                                             
登場人物の誰もがどこか自分に似ているし、どこか違う。感情移入は出来ないけど、無視することもできない。齢を重ねて生きていくってことは自分の中の虚飾を剥ぎ取っていく行為だと思いますが、世俗だけでなく、ジェンダーとか性役割まで切り捨てていったあとに何が残るのか。それは自分がどれだけ遠くまで行けるかを試してみる旅みたいです。この突き放した感じが、もしかしたら『愛の本質』なんじゃないかとボクは思いました。

     
                                                                         
                                                    
なんて、ね(笑)。
溢れるような奔放で美しいイメージと音楽ど真ん中に直球を投げ込んでくるようなストレートな脚本性的マイノリティの物語を借りて、思想的な純度を高めた普遍的な物語です。知的で過激で、すごくシャイ(笑)。パシフィック・リムとは違う意味で(笑)完成度は今年ダントツの秀作です。