特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

大飯の再稼動とドビュッシー:『ダン・タイ・ソン ピアノリサイタル』


大飯の3号機が再稼動したようだが、驚きはない。想定内の話だ。むしろフクシマ4号機の冷却装置故障のほうが心配だったし、再稼動しようとしまいと核燃料の詰まった原発がある限り危険なのだ。今後も電力会社のバランスシートに原発や核燃料が資産として載っている限り、彼らは再稼動させようとするだろうし、原発補助金がある限り、再稼動を受け入れる地元自治体はあるだろう。特に世界最大の原発、柏崎の再稼動は来年度 必ず狙ってくる。
原発を電力会社から切り離して国の管理にする』、『電源三法を改正して、年間1000億近い補助金を止める』、原発を止めるにはこの二つがどうしても必要だ。こうすれば原発の是非は利権でなく、理性で判断することができる。

                                                                   
原発を動かさないとコストが、とか言っている奴は(こういう東大話法バカがいる→池田信夫 blog : 愚者の行進 )、総合的なコスト(これから発生する廃炉や核燃料処理、安全対策の費用、それに補助金=税金)を無視している。そもそもランニングコストではガスタービンによる火力発電が一番安いとされているのだから、普通に考えたら原発のコスト優位性は既に減価償却が大幅に進んだ炉以外はありえない。それはつまり、フクシマみたいに老朽化した炉ってことだ(笑)。いくらなんでもそれじゃあ、やばすぎるだろ(笑)。
                                                  

現場に行って良く判ったのだが、先日 官邸前の『再稼動反対』のデモに集まった人たちは単に再稼動だけに怒っているのではない。政府の民意を無視したやり方に抗議しているのだ。そうでなければ10万人以上も集まるものか(笑)。ボクだって本当に必要なら、一部の原発の再稼動はしかたがないと思っている。だけど『安全対策は後回し、需給対策はいい加減、活断層は調べない、周辺の避難対策はしない』では、今回の再稼動に何の正当性があるというのか。

東洋経済の記事から:6/8に野田が再稼動すべきと言い出してから、皆が怒り出したことがわかる。http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/ccbc9483e3a7f500d92eead9e0cacbf1/]

                                              
デモだけでは世の中は変らないし、怒っているだけでも物事は変らない。元来ボクはデモなんか嫌いだし、キーキー訳のわかんないことを言っている奴も嫌いだ。また、あれだけ多くの人が集まって何かアクシデントでも起きたら、奴らの思う壺だ。
それでも一つ言えるのは、人間は声を出すことができるってことだ。たとえ理路整然とした言葉にすることはできなくても、声を出すことはできる。自分の力で声を出している人をボクは愚者だとも、無意味だとも思わない。声を出すことはボクのようにカネも才能も無い人間にできる数少ないことの一つであるからだ。声高でなくても、声を出すことは人間にとって一つのよりどころなのだ。*絶望的な状況で主人公が『まだ声だしてんぞ』とあがく映画『サイタマノラッパー3 ロードサイドの逃亡者』のラストシーンを見て、そういうことをより強く思うようになった(笑)このおとぎ話は誰のものか:『サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)

結局 今問われているのは、この国に民主主義が存在しえるか、ということだ。3・11で、この国の政治家や官僚、電力会社の正体はもう、バレてしまったんだよ。

●夕暮れとiPAD@6・29


                                                  
ということで(笑)、紀尾井町へ。『ドビュッシー生誕150年特別企画 ダン・タイ・ソン ピアノリサイタル
 
ちょうど2年前、この人の演奏に強い印象を受けた。アジア人初のショパン・コンクール優勝者だからうまいのは当たり前だが、独特なリズム(痙攣と言うか、泥鰌すくいみたいだった)で演奏された『英雄ポロネーズ』の解釈に恐れ入ったのだ。梅雨前のマズルカ:ダン・タイ・ソン公演 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)

ドビュッシー・プログラムと題された今回の来日予定を聞いて、ショパンが得意なこの人はきっとドビュッシーにも相性がいいだろう、と思ったから、結構うきうきしながら出かけた。

<<セットリスト>>
1.版画
 パゴダ、グラナダの夕べ、雨の庭
2.2つのアラベスク
3.映像 第1集
 水に映る影、ラモー賛、運動
4.喜びの島

 休憩

5.前奏曲集 第1巻
 デルフィの舞姫たち、帆、野を渡る風
 音と香りは夕べの大気に漂う
 アナカプリの丘、雪の上の足跡
 西風が見たもの、亜麻色の髪の乙女
 とだえたセレナード、沈める寺
 パックの踊り、ミンストレル
<アンコール>
 ドビュッシー: 「ベルガマスク組曲」から 月の光
 ドビュッシー: 「前奏曲集第2巻」から 花火


今回も黒のマオ・スーツを着て、ご本人が登場。
演奏が始まって、まず、この人の指の動きが達者なのに感心する。やっぱりドビュッシーとは相性がいいのだろう。滑らかなトリルの繰り返しのなかにメロディが浮かび上がってくる感じだ。時折挿入される独特な和音はアクセントにはなっているが響きは柔らかで、まるで流れる小川に小石が投げ込まれたかのようだ。目の前で行われているのはピアノ演奏と言うより、まるでスーラみたいな点描画が描かれているように錯覚する。
ただ、この日の演奏は、ボクには見せ所での盛り上げはやや不足気味に思えた。例えば『喜びの島』後半 独特のテンポでの盛り上がりみたいなものはあったけど、盛り上がりきる前に終わってしまう。そういうところが何回かあった。淡白というわけでもないし、危なげない、質の高い演奏だったのは間違いないので、そこまで望むのは贅沢かもしれないが。
                                

あっという間の2時間は楽しかった。今回は演奏の盛り上がりとか斬新な解釈とかはあまり感じなかったけど、こういうレベルのものを日常で味わえるのはまさに喜びだ。繊細な音色で描かれた空間に文字通り身を任していたら、いつの間にか時間が過ぎていった。日常の憂さなどは忘れてしまったかのように、豊かな色彩が拡がる空間は穏やかで心地よかった。