特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

だまされることの責任

山口県の知事が地元の上関原発の再稼動に反対することを表明した。http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110519k0000m040157000c.html
一方 福島県は未だに知事も議会も残った原発について態度を決めかねている(笑)。 http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20110519-OYT1T00062.htm


住民がこれだけ酷い目にあっても まだ原発に未練がある政治家、というのはボクには全く理解できないが、今まで福島県にばら撒かれてきた、累計で2700億円という莫大な原発交付金を考えればわからないでも、ない。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110518/dst11051801530009-n1.htm

原発で避難している人のなかでも今まで補助金を受け取ってきた周辺住民とそうでない住民がいる、というこの記事はいかにもサンケイらしい下品で下劣な論調だが、一理はある。
避難された双葉町大熊町の住民はお気の毒だし、もちろん被害者だ。だが、今まで東電や国から莫大なカネを受け取ってきたのだから、少なくとも選挙権を持っている住民は自ら原発を受け入れた責任もある、ということは忘れてはならないと思う。(しかし、子供や動物には責任は絶対にない)。

もちろん『絶対安全』というウソをついて原発を推進してきた東京電力、国、経済産業省、そして福島県は周辺住民より遥かに重大な責任を負っているのは言うまでもない。


東京で電気を使ってきた人間にだって、もちろん事故の責任はある。ボク自身も愚かだった、もっと反対しておけばよかった、と思っている。
だが原発周辺にジャブジャブばら撒かれていたカネは主に首都圏の住民が払う電気代や税金で負担されてきたのだし、電力が地域独占体制の日本では(ドイツのように)原発で発電された電気かそれ以外、という選択権がないのだ。実際 東京都民だって被爆しているのだから報いも受けている。

事故が起きたら東京に直接的な影響が及ぶ恐れがある浜岡、柏崎、福島の原発はボクは絶対反対だ。東京都民としてボクには抗議する権利がある。だが、その他の原発は、反対ではあるけど、ちょっとニュアンスが違う。まず原発が立地する周辺の人々が自分たちはどうしたいか、考えるべきだと思うからだ。


はっきりしておいたほうがいいと思う。
地方にとって原発を受け入れるということの意味はこういうことだ。

原発を受け入れるメリット>
・地元に莫大な原発交付金が降りてきて温泉施設だの、公民館だの、箱物は建てられる。また地元の雇用は生じる。ちなみに浜岡原発がある御前崎市は歳入の4割が原発関連だそうだ。

<事故が起きた際のデメリット>
・住民の健康リスク。放射線によるガンだけでなく、公言はされないが従来から原発周辺では出産に関するリスクも囁かれている。
・事故の程度にもよるが、今回のような例だったら周辺地域は30年くらいは住めない
・地域の産業、特に第1次産業は全滅
・住民はいわれのない差別を受ける。従来から原発で事故が起きるたびに特に結婚の際、いわれのない差別をうけた例があったことが報じられている



簡単に言うと、地方が原発を受け入れるというのは、事故が起きたら自分たちの生活も場合によっては生命も失うことを覚悟してカネを受け取るということだ。住民の人たちはどちらを選ぶのか、ということだ。

もちろん原発は絶対安全、事故は起きない、なんてことはあり得ない。そもそもインチキな投資話やねずみ講みたいに『絶対安全でカネだけもらえる』なんてことがあるわけないではないか。 リーマンやゴールドマン・サックスじゃあるまいし、流石にそれは強欲すぎるだろ(笑)


だまされることの責任 (角川文庫)

だまされることの責任 (角川文庫)

この本の冒頭で伊丹万作伊丹十三の父、映画監督)の書簡が紹介されている。そこでは彼は終戦直後 戦争に協力した映画人の責任を糾弾しようとする知人に対して、こういうことを述べている。
『(国民をだました)戦犯人の追求と言うことは重要ではあるが、これからの日本でそれ以上に必要なのは、騙されるような脆弱な自分と言うものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである』


東電や経済産業省のようにだました側には責任がある。その責任は徹底的に糾弾しなくてはいけない。また同じことが起きるから。


だが、だまされる側にだって責任があると思う。
我々ひとりひとりの人間はきっと、それほどはバカではない。たまに例外もあるけど(笑)。
だからこそ、人間にとっての責任とはまず、『(国や企業を盲信せず)自分の頭で考えてみることだ』と思うのだ。