早いもので今年もあと数日。ボクは今日で仕事終了です。
今年も1年間 何とか耐えきることができました(笑)。おかげさまで大過なく過ごせたとは言え、例年にも増して綱渡りの毎日でした。早く、ご隠居生活に入りたいです。
土曜日のTBS報道特集で中国武漢での封鎖状態を綴った作家のこんな発言、『ある国の文明度を測る唯一の基準は弱者に対して国がどんな態度をとるかだ』が紹介されていました。確かにその通りだと思いました。
勿論 日本の現状はかなり恥ずかしく感じます。コロナ渦で多くの人が苦しんでいる実態を考えると、「『一部の命を犠牲にして多数派の自由を守る』は日本の抱えている根本的な問題じゃないか」と思えてきます。
太平洋戦争の数々の敗戦も、沖縄の基地問題も、原発も、『多数派のために少数派を犠牲にする』です。どこの国でもあることですが、現実を直視すればボクも含めて日本の多くの人が多かれ少なかれ、内面化している論理ではないでしょうか。
それは、多くの異なる人々で構成される社会の紐帯である『理念』をほごにしているということでもあります。社会の紐帯は古くは愛郷心や地縁血縁、国によっては愛国心や宗教、イデオロギー、独裁者への熱狂だったりしますけど、民主主義の国では公や共と自分との『約束』と言っても良い。
今年の春 三島由紀夫と全共闘の討論のドキュメンタリーを見たとき『仔羊の丸焼き』と映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』 - 特別な1日、彼らの主張はどちらも同じで『反米愛国』と思いましたけど、そんな単純なものでは社会の紐帯にはならないと思う。
政治家が国民には会食するなと言っておいて、自分たちは宴会三昧だったら誰も言う事は聞きません(笑)。日本で民主主義への意識が低いのは国と民との『約束』の概念が薄いから、と思う。強いて言えば戦後は『平和憲法』、『憲法9条』が国民と民との約束の役割を果たしてきたけれど、平和憲法や憲法9条はアメリカの軍事力の傘や他国での戦争、沖縄などの負担を元に成立してきた、ある意味 偽善的なものでもあります。
我々は社会、つまりこの国に暮らす人々同士でどんな『約束』を作っていけばいいのか。今後の大きな課題に違いありません。
先週、12月一杯で閉店が決まっている青山のイタリアンへ最後の訪問をしてきました。
閉店を惜しむお客さんで店内は賑わっていましたが、シェフ氏に『楽しくね!』って釘を刺されたので、どこのテーブルも湿っぽい話は一切なし。
●白トリュフのパスタは前回のタリオリーニより幅広のタリアテッレ。手打ちです。
ボクは食べることしか興味ないので他の客の事はそれほど気にならないのですが、この日 シェフ氏は隣のテーブルで『うちには自分で自分を文化人って言わない文化人が来る』って言ってました。この店に昔 クイーンのフレディ・マーキュリーも来てたのも始めて知った(笑)。シェフ氏はフレディのことを全く知らなかったらしいですが(笑)。
代わりに今年 何人か有名人がこの店のことを書いてたので引用しておきます。
●高嶋政宏 【こだわりの極意】家族のような居心地のいい場所 イタリアン「ラ・パタータ」 (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト
●作家の島地勝彦と写真家の立木義浩
www.shiseido.co.jp
第2回第2章「種を運び、撒き、育て、本場の味を届ける料理人。」 | Treatment & Grooming At Shimaji Salon | SHISEIDO MEN | 資生堂
第2回第3章「人の喜ぶ顔はすべての原動力である。」 | Treatment & Grooming At Shimaji Salon | SHISEIDO MEN | 資生堂
第2回第4章「経験は、やがてその人の味になる。」 | Treatment & Grooming At Shimaji Salon | SHISEIDO MEN | 資生堂
この店、メニューないんです。無いわけじゃないんだけど、知ってる客にはシェフ氏が季節の美味しいものを見立てて勝手に決めてしまう(笑)。一応食前に希望は聞かれるけど、向こうは数日前から仕込んでるのは判ってるから、こっちも言うこと聞かざるを得ない(笑)。そういうやり取りも楽しい。
今は肉も魚も需要が少ないから、市場に良いものがなかなか入ってこないそうです。この日のメインは『一頭分(8人分)しか手に入らなかったので我々のテーブル用にとっておいた』と言われた和牛のシャトーブリアン。脂がのってるから、実はあんまり好きじゃないんですが、仕方がない(笑)。まあ、美味しいんですけどね。
相変わらず、ナイフを入れても全く肉汁が流れない、焼きの名人芸。
美味しいモノと明るい会話を楽しむ2時間。湿っぽい話はしない。
ただ、会計が終わってコートを着るときに『長い間ありがとうございました』と言って、シェフ氏に72色のでかい色鉛筆のセットを渡しました。彼もそうですが、料理人って料理のレシピを記録するために普段から絵を描く人多いんです。きっとこれから時間ができるでしょうから。
店を出る時はボクだけでなく、シェフ氏も言葉が詰まったようでしたが、お互い、それ以上は何も言わない。
その後 深くお辞儀をして、さっさと帰りました(笑)。シェフ氏の奥様は店の前で普段より長く見送ってくれましたけど。
どんな楽しい時間でも終わりがあります。古い店なので30年以上通ったボクもまだまだ若手の客(笑)だそうですが、高島政宏が書いているように、ボクも食べ物だけでなく、大人の振舞い方をこの店で教わりました(まだまだですが)。単に美味しいものを出すだけでなく、客を育てる店でもありました。育てられた人間はそれをまた、誰かに還元しなくちゃいけない。
最後の日にも『楽しい時間を過ごすには努力が必要』ということを教わった気がします。そう、楽しい時間を過ごして人生を豊かにするのも、意識して努力をしなければいけない。人生の豊かさは向こうから歩いてこない(笑)。
終わるものがあれば、新しく始まるものもあります。色々なものが失われた2020年でしたが、来年は新しいもの、新しい善きものを作っていけるよう頑張っていきたいと思います、なんてね(笑)。
今回で今年のエントリーも最後です。いつも勝手なことばかり書いているブログを読んでくださった皆さん、ありがとうございました。どうか良いお年をお迎えください。
ということで(笑)、今年最後の映画の感想です。
政治家の無能・無恥ぶりを散々見せつけられた1年でしたが、良くも悪くも日本でもこういうことがあった、ということを年末に書いておきたい、と思いましたので。
東中野で映画『戦車闘争』
sensha-tousou.com
舞台は1972年、ベトナム戦争が続く中、アメリカ軍は神奈川県の相模原市の相模総合補給廠で破損した戦車・装甲車を修理し、国道16号を通って横浜港へ輸送していた。そこに戦場へ戦車を送ることに反対する市民や学生が集結。およそ100日間におよぶ抗議活動が行われた。
1972年、神奈川県相模原市と横浜市で起きた米軍の戦車搬出阻止闘争に関するドキュメンタリー。正直、東京近郊でこんなことがあったとは全く知りませんでした。
映画は当時の運動に関わった市民と家族、ベ平連の人たち、政治家、警察、近隣住民、米軍に依頼された輸送業者など50人以上の証言で成り立っています。
●作家で元べ平連の吉岡忍
ナレーションは当時 新宿でフォークゲリラに関わっていた泉谷しげる。昨年か今年か忘れましたが、泉谷は安倍晋三に呼ばれて飯を食いに行きましたね。
72年、泥沼化するベトナム戦争には日本でも反戦の機運が高まっていました。沖縄を飛び立ったB52がベトナムを空爆したり、日本本土も米軍の補給基地になっていたという現実がありました。日本もベトナム戦争に加担していたわけです。
相模原市にある米軍の相模総合補給廠はかって旧日本陸軍の戦車関連施設で、日本占領後そのまま米軍が使っている施設だそうです。近くにある旧日本軍の施設はキャンプ座間、横田基地という形で今も米軍が使っています。
ベトナム戦争当時 戦車や装甲車などの修理はここで行っていました。日本人も1000人近くが働いていた。労働力だけでなく、直ぐ近くに日産の工場があったことから判るように、この近辺には工業の技術的集積がある。米軍にとっては貴重な存在です。
横浜港から相模原まで国道16号で一本道です。16号というのは近辺の住民にとっては生活の大動脈です。相模原に戦車が運び込まれているのは次第に市民たちの間で知られるようになりました。
72年5月 社会党の相模原市議、丹治栄三らが16号線を封鎖し、トレーラーで輸送されるM48戦車を数十分止める、という事件が起こります。
●かって抗議に参加した人。右がプロデューサーの小池氏
その後 丹治らは社会党の飛鳥田横浜市長と交渉、『重戦車のM48は車両制限令という法律上 重量オーバーで横浜港直前にある村雨橋を通過させることはできない』という見解を引き出します。
飛鳥田一雄生誕100年<下> 国にもの言うのが地方 | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞
映画には出てきませんが、後日飛鳥田はベトナムを訪れた際 ベトナムの首相からこの件でお礼を言われたそうです。ちなみに飛鳥田は日米地位協定に定められていない米軍の港湾施設の立入検査も実現させています。
●抗議現場でマイクを取る飛鳥田市長
8月になると今度は横浜港の米軍施設の手前にある村雨橋に大勢の市民が座り込み、運ばれてきたM48戦車を引き帰させます。
これで一気に火が付き、相模原補給廠前に大勢の市民や政党、中核や核マルなどの学生運動がテントを設置、その後 100日間にも及ぶ大規模な抗議運動が始まります。
●戦車を運ぶトレーラーの前に座り込む市民たち
見ていて思ったのは、大勢の人の行動に火が付くのは、理不尽なことだけでなく、成功事例が切っ掛けになるってことです。
戦車の修理自体は相模原の市民には知られていました。1000人近くの市民が補給廠で働いていたからです。壊れた戦車の穴に人肉がこびりついていた、という証言もありました。そのことへの反感はあっても、抗議活動にはなかなか結び付かなかった。
具体的な活動が起きたのは社会党の相模原市議の丹治ら5人の実力行使と飛鳥田市長による『戦車を公道で輸送するのは法律違反』という判断です。勝てば官軍、じゃないですけど、運動も何か成功事例がなければ、具体的な盛り上がりは作れない。
●沿道に市民たちが作ったテントが見えます。
補給廠前には数千の市民が座り込み、機動隊も動員される。連日デモや抗議活動、投石などが行われます。集まっているのはベ平連などの市民運動家や地元の市民たち、中核や核マルなどの学生運動、社会党や共産党の政党などです。
様々な証言が取り上げられますが、テントにいた地元の市民活動家の女性市議が『共産党が機動隊に追われて自分たちのテントに逃げ込んできた学生を追い出していた。あいつらのやり方はいつもそう。あいつらは最低』って言ってたのが面白かったです。
あと『核マルや中核は何もしなかったくせに後からやってきて、目立つところに陣取っていた』という証言もありました。安保法反対の時もあいつらは国会前で市民の邪魔ばかりしてた。昔から同じだったんだ。
あと、何日も風呂に入ってない人が多かったので非常に臭かったとか、地元の商店は当初は同情的な人も多かったが、商売では非常に迷惑した、などの地元商店主の証言もありました。抗議側の投石でガラスも割れたし、座り込む女性をジェラルミンの盾で叩いて流血させるなど警察側も暴力的だった。
映画では出てきませんが、現場では核マルと中核の内ゲバもあったそうです。あいつら、トコトン、バカ。
●べ平連の人たちの『ただの市民が戦車を止める会』の会報
やがて敷地内では米軍の戦車だけでなく、南ベトナム政府軍の装甲車を修理されていることも報じられました。安保条約違反です。
9月になり、政府は『ベトナム政府軍向けの修理はしないと同時に戦車修理部門の縮小』を閣議決定すると同時に、車両制限令を改正、米軍車両は適用外になりました。そして村雨橋の強度も補強します。法律上の根拠を失い、輸送を反対していた相模原市長も、飛鳥田横浜市長も搬出を認めざるを得なくなります。
11月には機動隊4000人を出して3000人の市民を実力排除、テントを撤去させ、搬出が再開されます。
輸送会社の話では投石などで搬出する側も命がけだったそうです。先頭の車両に運転手と社長が乗り込み、続く車両にも息子たちが同乗した。100日間にも及んだ抗議活動も終焉を迎えます。
まさか政府が法律を変えてくるとは思わなかった、というのが社会党系の人たちの証言です。彼らは、当初の車両制限令を盾にとった成功体験に安住した、と言ったら厳しいでしょうか。成功体験に安住する市民運動はそのあとも、今に至るまで繰り返されているようにボクは思います。
当時の外相 大平正芳の秘書官、森田氏の証言が面白かったです。
大平は『ベトナム戦争には絶対反対。ばかげている』と思っていたそうです。しかし、『市民運動などは大嫌い。抗議運動の参加者たちの気持ちは全く理解できなかった』。
大平としては『(抗議運動があろうがなかろうが)どうせベトナム戦争はまもなく終戦になる。だったら戦車修理部門の縮小など今後につながる実利を得るべきだ』と考えていたそうです。
老子を愛読していた大平ならではの発想、と思いました。ある意味 冷徹です。そして大局を忘れない。また、ポピュリズム、熱に浮かされたような集団を一切信用しない。
及ばずながらボクも老子を信奉していますが、時々、『老子はエリート主義』という批判もあります。それはこういうところでしょう。しかし感情より現実を優先するのなら、大平の言ってることはよくわかります。残念ながら大平は日本がベトナム戦争に加担している責任には目をつぶっていますけど、その他の点はボクは理解は出来ます。
映画はそのあと、現代にいたるまでの米軍基地の問題に言及します。関東の西半分を米軍が支配している横田空域の問題や日本は米軍が海外展開するための不沈空母、という証言が出てきます。
面白かったのは伊勢崎賢治の話。数年前のシリアへの爆撃は三沢基地から出撃した部隊が行いました。ベトナム戦争と同じです。『(逆に)憲法9条がある限り、日本は米軍の部品でしかない』という話は、なるほど~とも思ってしまった。
【いやー、アメリカの戦争の一部だっていう伊勢崎さんの言うこともわかるけど、自衛隊を送らずに済んだからね、9条のおかげで(懇意にしている野党の元首相経験者のお話)】君、それ、日本を自由出撃した米軍の犠牲になった国の民衆に聞かせろよ。単に、卑怯・卑劣なの!https://t.co/LAv9Q72hto
— 伊勢崎賢治 (@isezakikenji) 2020年12月26日
更に映画は、姿を消していた当時の闘争に中心的な役割を果たした元相模原市議、社会党の丹治氏を探し当てます。活動家一筋だった丹治氏は家業の印刷屋は妻に任せきり、他人の借金の保証人になるなどして倒産、その後は相模原を離れ、豆腐の行商をやっていました。90歳を超えた今は老人ホームで過ごしています。
彼は『当初は戦車搬出に反対していた相模原市長や横浜の飛鳥田市長が法改正後 搬出を認めたのは仕方がない』とするなど、案外 淡々としていたのが印象的でした。インタビューには長女が付き添っていたのですが、家族としては、家も仕事もほっぽりなげたしょうもない活動家爺さん、という感じでしたね。
●現在の丹治氏
と、いうことで、ボクは全然知らなかった『戦車闘争』のことだけでなく、今に至る米軍基地の問題、市民運動や左派の退潮なども良くわかる、面白いドキュメンタリーでした。活動が一般の市民にまで広がっていくには小さな成功例が必要(村雨橋)、しかし同じ成功例に固執していると足元を掬われる(法改正)。これはプロジェクトの進行など仕事と一緒ですね。
多くの証言で話が組みあがっているので最初はとっつきずらかったところもありましたが、直接・間接の抗議の当事者だけでなく、警察や周辺住民も含めて、多面的な証言で成り立っているのが良い、です。よくぞこれだけ証言を集めた労作でもあります。
戦車闘争があったのは、そんなに昔のことではない。戦車が輸送されていた国道16号は今 朝から晩まで自動車でごった返しています。1年中 大渋滞の名所です。戦車を輸送したり、デモ隊が道路を封鎖したなんて想像もできません。今はそんなことやったらパニックが起きるでしょう。
でも、こういうことがあったのを記憶したり、考えることは常に大事だと思いました。結構色々なことを考えさせられます。ましてや米軍基地、アメリカの傘の下の、いわば偽善的な9条の平和と言った問題は今も続いているのですから。
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