特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

心の壁:映画『ギリギリの女たち』


やっと涼しくなってきたと思ったら、デパートからおせち料理の案内が送られてきた。そういうものを買ったことなんかないけれど、目は惹かれる(笑)。季節が過ぎるのも、歳をとるのも早くなったなあ(泣)。
                                                                            
仕事で旧知の福島の人と話す機会があったいわき市在住、盗電とADR係争中(笑)の彼は『なんだかんだ言っても、皆 福島には行きたくないし、福島のものは買いたくないと思ってるでしょう』と言う。彼は昔から何でも物事を率直に語る人(笑)なのだ。悪気はないし、大変 判りやすい。でも、やっぱり返す言葉に詰まってしまった。
旅行とかは面倒くさいので、もともと福島へ行くことも殆どなかったけど、確かに福島の産物、特に水産物は関東・東北(太平洋岸)のものはボクは買わない。よく風評被害と言われるけど、食品に残留放射性物質が表示されてない場合は産地で判断するしかないのだから当然と思っている。       
よく言われる、地方は都会のために電気を作ってきたという論理は、都会の消費者に電気を選ぶ自由がないのだからバカげた話だ とボクは思っている。第一、原発立地だって補助金に釣られた責任、『騙される側の責任』(伊丹万作)というものがあるだろう。
                                            
だけどなんとなく、割り切れなさが残る。都会の人と福島の人、電力消費地の人と原発立地の人、避難した人と避難しなかった人、避難できなかった人。そして原発で得をする人と原発に脅かされる人。この世の中はいくつもに分断されている。でもフクシマにしろ、水俣にしろ、国が平気で国民を切り捨てるこの国では、誰だって明日は我が身のはずなのだ。
この国には普通に暮らそうとしている者同士を分断するシステムがある、と思う。個人の心の中にある壁のようなものだ。それは都市と地方の問題なのか、それとも例の1%と99%の問題なのか、うまく説明することはできない。どうせボク風情にはたいしたこともできないし、その壁をどう乗り越えたらよいのかもわからない。けれど、そのシステムにせめて一矢くらいは報いてやりたいと思うのだ。
                                                                             
                                         
渋谷でレイトショー。小林政弘監督の新作『ギリギリの女たち


あまり日本では馴染みがないかもしれないが、小林政弘という映画監督は海外では一定の評価を得ている人だ。この10年間彼は無器用だが骨太な、現代の日本を真正面から見据えた映画を作ってきた。 イラク人質事件をテーマにした『バッシング』、殺人事件の被害者家族と犯人との和解を題材にした『愛の予感』、貧困家庭に生きる少年を描いた『ワカラナイ』、家を飛び出した祖父と孫娘との二人旅を描いた『春との旅』。
仲代達也が祖父を演じた前作『春との旅』などは宣伝コピー上で上野千鶴子から『老人男性の身勝手な願望』とバッサリやられていたが(笑)、どの作品も今のボクらを取り巻いている世界をリアルに、だけど普遍性を持って描いていた。
特に監督自らが出演した『愛の予感』は全く台詞がない、登場人物もほぼ二人だけという作品だったが、殺人事件の加害者と遺族、という凍りついたような表情の登場人物が次第に生の躍動感を取り戻していく過程が本当にすばらしかった。
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で、今回の新作。
舞台は震災後の気仙沼。高台にあったために津波災害から免れた古ぼけた無人の家屋。そこに、かってその家で育った3姉妹が戻ってくる。
NYで暮らしていた舞踏家の長女、東京で結婚した次女、地元に残っていた三女、皆 何か、わけアリのようだ。電気も水道も止まった家でそのまま3姉妹は暮らし始める。

そんなお話。

撮影は昨年の夏。気仙沼の監督の実家を使用したそうだ。その家自体は無事だが、周辺は骨組みだけになった家に、地盤沈下で波に洗われるようになった海岸べりの道路。目を疑うような衝撃的な光景が画面に広がっている。そのような状況で映画撮影など不謹慎といわれかねないが、小林監督は実家で撮ったのだから誰も文句は言えないだろう(笑)。

そこでの女性3人芝居。
実際に電気もガスも水道も通っていない家でカネも職業も帰る家も、愛情すらなくしてしまった3姉妹はあてどなく暮らし続ける。それを描く画面の肌触りがとてもリアルで、ドキュメンタリーと錯覚するような感じすら、ある。
●三姉妹。左から三女、長女、次女
 
                             
お話は復興しつつある街と廃墟が入り混じる気仙沼をバックに、次女と三女の会話を中心に進んでいく。一見 豊かそうな東京暮らしをしてきた次女と、地元で貧しさの中に放置されていた三女との対比は東京と地方との構造を模しているかのように見える。どちらがどう、と単純には割り切れないのは現実と同じだ。
彼女たちは何かによって分断されている。はっきりしているのは、『グローバリゼーション』や『カネが全て』の世の中の風潮に破壊されつつあった彼女たちの暮らしに、震災が一気に追い討ちをかけたという構図。
程度の差こそあれ、今 多くの人たちが直面していることに、この映画は真正面から向き合っている。


いつもの小林監督の映画同様、この作品では食べるシーンが執拗に出てくる。カレーライスをがつがつと食べる女性たちを見ていると、良い意味で動物としての生命力が感じられる。ただ演出は過剰なところもあった。特に長女役の渡辺真起子がわざと舞台演劇のような大仰なしゃべり方をしていたのには違和感があった。前作『春との旅』では孫娘がいつも足を引きずって歩くなど、小林監督はシンボリックな演出をすることがあるが、今回はイマイチ、意図が理解できなかった。長女の登場場面は冒頭と最後だけと少なかったから良かったけど(笑)。

●廃墟となった街で

                                                      
まんじりともしないまま夜を過ごしたあと、次女と三女はとうとうお互いの心の奥底にたどり着く。カネ、職業、家、愛情、今まで大事にしていたものが全て剥がれたあと、分断されていた彼女たちはどうにか心の壁を乗り越えて見せる。白々と明けてくる夏の夜明け。このシーンはあたりの空気感も含めて感動的だった。
                                                  
これは何もかもなくしてしまったけれど、分断を乗り越えて生きていこう、とする人間の物語。虚飾もなく、ただ生きていこうとする物語。
成功作とか傑作ではないかもしれないけれど、この映画に描かれていることは3・11のあと表現されるものとしてはふさわしいものだ。何よりも作者が今 撮りたかったということが良くわかる映画だった。