特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

自己責任病と貧困な思考:NHKスペシャル「権力の懐に飛び込んだ男」

 2月28日放送のNHKスペシャル『権力の懐に飛び込んだ男 100日の記録』NHKスペシャルは実に興味深い番組だった。貧困者救済のNPO『もやい』の代表 湯浅誠氏が政権に請われて内閣参与に就任した際のドキュメントだ。
 見ていて思ったのは、組織間の調整の難しさだ。湯浅が貧困者をサポートするために何かやろうとすると、その前に立ちふさがるのは組織の壁だ。
例えば ハローワーク生活保護、就職相談、住居相談などのワンストップサービスを実施しようとする際は充分なPRが行われなかった。あまり相談者が増えると混乱するから、という理由で積極的なPRに役所側が反対したからだ。
また今回 年越し派遣村を開設した際に宿泊施設の館内放送を使えるようにするだけでも1日かかったそうだ。理由は要請を運営元のNPO⇒東京都⇒厚生労働省⇒(施設の管理者)文部科学省という経路で依頼しなければならなかったからだ。
 大きな組織を動かしていく、というのは実に大変なことだ。人間的な意志の強さが求められるのはもちろん、非人間的な決断も強いられる。期間中 就職できた人は500人中、 15人に終わった年越し派遣村が終了した際 宿泊していた人たちに不手際をわびながら、それでも呼びかけを続ける、無精ひげを生やした湯浅氏の姿はとても印象的だった。
 しかし、官僚は駄目だ、とか言っても仕方がない。
貧困者を救う視点から見ると、さきのPR不足や館内放送の話など実に馬鹿げているが、管理面から考えると官僚側にも一分の理がないわけでもない。結局は大組織のマネジメントの問題であり、優先順位の問題だ。よく政治家やマスコミが言っているような政治主導でどうにかなる問題ではない。与野党を問わず政治家こそ、いくらでも『世論で踊る』存在だからだ。
 このような『(問題解決の)優先順位の履き違え』が生じるのは、番組中 湯浅氏が言っていたように貧困者救済に対する世論が充分に熟してないから、でもある。
 失業やワーキングプアで困窮している人を単純に『自己責任』で切って捨てられる神経がボクには不思議でならない。よほど資産を持っているならともかく、誰でも明日は我が身ではないか。今の日本では、健康を害したり、失業でもしたら、一部上場企業の管理職だって、あっという間に貧困状態に転落だ。
 だが、そんな世の中でいいのか?という議論は中々盛り上がらない。自分自身を取り巻く環境や世界を広く知ろうともしないまま『自己責任』というコトバで思考が停止する様はまるで伝染病が広がっているかのようだ。 番組では触れられなかったが、今年の派遣村では、支給された手当の不正受給があったという件が一部のマスコミで報じられていた。商業右翼の産経新聞(というより、朝日だのサンケイだのはイエローペーパーに近いと思うが)やTVのニュースなどでは、そのことをまるで鬼の首でもとったかの様に叩いていた(おまけに、その尻馬になおも載ろうとしてたのがバカ都知事)。
 どのような施策、政策でも、このような、ある意味『歩留まり』があるのは当たり前のことだ。例えば経済産業省がやっている商店街や市街地の活性化策などは歩留まりどころか日本全国失敗だらけだろう(数年前の総務省の調査では中心市街地の活性化策などは90%以上失敗したそうだ)。物事を総合的に評価もせず、このように一つの事象だけあげつらって非難するマスコミというのは実に質が低いし、悪意すら感じる。
 低級なデマに載せられて、自分たちで自分たちの首を絞めている、それが日本の多くの人の現状だろう。物資的な貧困は貧困な思考が作り出している、とも言える。以前に触れたアンソニー・ギデンズの『日本は本格的な市場主義社会も福祉社会も、ともに体験していない』オリンピックと「第三の道」 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)という指摘の重要性はここにも、ある。
 番組は派遣村が一区切りついた湯浅氏が内閣参与の辞表を出すところで終わる。賛否両論あるだろうが、ボクは当然だと思う。(本質的な問題である)貧困者を救済しよう、誰もがまともな生活を送ることができる社会にしよう、という世論を作っていけるのは政府ではないから、だ。