特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

『ワカラナイ』、そして付け足したエンドロール

 渋谷で小林政広監督の新作『ワカラナイ』�f���w���J���i�C�x��T�C�g
東北地方の母子家庭で育つ主人公、17歳の男の子が母親の病気やアルバイトを馘首になったことで経済的に行き詰まり、貧困状態に陥っていく、そんな話だ。
正直、あまり見たくもない、知りたくもない、気分が重苦しくなる話だ。だが、これが世界第2位の経済大国(もうすぐ中国に抜かれて3位になるが)、日本の現実だ。勿論 ボクにとっても他人事とは言い切れない、話でもある。
 本編の上映前には劇場のスポンサー『ヒューマントラスト』という派遣会社のCMが写される。貧困を描いたこの映画を見る前にそんなCMを見せられるのはまるで、悪い冗談のようだ。だが、これもボクらの現実の一つ。

 映画を見ていると何度も何度も深いため息がでてきた。身につまされる。だがそれだけでは、映画としても、物語としても成り立たない。
 貧困と言う、ある意味現代的なメッセージ性の強い話だが、押し付けがましさはない。それは演出に監督の抑制が効いているから。
少年の惨めで孤立した厳しい日常。例えばガスも電気も止められた廃屋同然の家での生活、アルバイトを馘首になるシーン、飢えに苦しんだり、むさぼるような食事のシーン、病院や葬儀屋に支払いを迫られるシーン、母親の死体を弔うシーンですら、ある意味 淡々と流れていく。
きっと現実はこういうものではないのか。静かだが、どこにも救いはない。だからこそ怒りや悲しみが伝わってくる。
 主人公の少年は殆ど言葉を語らず、感情を見せることもないが、独りになったとき時々露にするむせび泣きは、重苦しい話の中で抑制を強いられていた観客をも解き放つかのようだ。少年が泣き声をあげるたびに、ボクは救われるような気さえした。
この監督の過去の作品『バッシング』でも『愛の予感』でもそうだったが、けっして語りすぎることがない、その演出の手腕は大したものだ。ただ登場人物が動物のようにガツガツ食べるのは前作『愛の予感』で効果的に使われていたので、今回はちょっと食傷した。
 雨の中を独り歩くびしょぬれの主人公の少年は、自分の別の姿でもあると思った。虚無と美しさが入り混じった土砂降りの光景は邦画ではUn loved以来。
ラストシーン。主人公が独り、おぼつかない足取りで、ふらふらと坂を上っていく。時折 道の端に傾いたりする、その足取りは夢遊病者のようで、こっけいでもあり、惨めにも見える。だが、ボクはひたすら坂を上っていく彼の後姿を見ることができて、とても嬉しかった。それはまるで彼が、デビッド・ボウイの’’Heroes’’に出てくる登場人物のようだったからだ。『誰でも英雄になれる、たった一日だけなら。
 このラストシーンには本当に心が動いた。これを見るためだけでも、この映画を見て良かったと思う。少なくとも少し勇気は出た。ただ 素晴らしいラストだったのに、その余韻を味わうためのエンドロールがなかったのはがっかりもした。

 上映後 小林監督が壇上に上がってティーチイン。監督は抑制の効いた演出とは対照的に、案外饒舌な人だったので、少し驚く。
場内からは『主人公が父親に抱きつき、そして拒否されるシーンはなんだったのか。あの男の子に最も必要なのは抱きしめてやることではなかったのか』という質問があった。監督曰く『この男の子は感情を解放することが必要だった。自分から他人に働きかけることが必要だった』。
作者に向かって言うのもなんだが、ボクはそれは違うと思う(笑)。
自分の感情を露にして他人に働きかける、主人公にはそれだけでは足りないのではないだろうか。実際 主人公は抱きついた父親から拒否されているのだ。もっとも大事なことは、独りで生きていくことを男の子が自分で選択したこと、だ。だからこそ、主人公がふらふらと坂を上っていくラストシーンが、あんなにも感動的なのだ、と思う。

 ティーチインが終わった後 帰ろうとすると、小林監督が、多分 息子さんなんだろうか、寄り添う男の子の頭に手をやりながら、エスカレーターで上階へ上っていくのに出くわした。監督に軽く抱きしめられながら頭をなでられて、にこにこ笑いながら話しているメガネの男の子は本当に監督そっくりだった。その微笑ましい光景は、子供を描いたこの映画のエンドロールとしてはある意味 完璧だった。
そのシーンを見ることができたのはボクだけなのだけれど(笑)。