特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

読書『犬の伊勢参り』と映画『なまいきチョルベンと水夫さん』

まず初めに、今週の官邸前抗議は金曜ではなく、30日の土曜日に行われます。今週末のブログ更新は土曜夜にするつもりです。
さて、ユニークな本を読んだ。題して『犬の伊勢参り

犬の伊勢参り (平凡社新書)

犬の伊勢参り (平凡社新書)

江戸時代 庶民の最大の娯楽として伊勢参りというものがあった。仕事や家庭をほっぱらかしても、伊勢をお参りするのであれば許されたというのだ。その中で江戸時代中期以降、犬だけで伊勢参りへ出かけた記録が複数 残されている。一番遠い例では一匹の犬が青森からはるばる伊勢までお参りした記録もある。果たして犬たちはどうやって伊勢へお参りにでかけたのだろうか。


                                        

何度も書いている通り『犬か、パンダを総理大臣に』がボクの持論だが(笑)、この本を手にする前は流石にそんなことがあるのだろうか、と思った。だが事実らしい。作者は動物文学の観点から過去の記録をひも解いて、検証している。
                                  

江戸時代まで日本では基本的に飼い犬という概念がなかったらしい。大奥など一部の上流階級向けに狆という犬は愛玩用に飼われていた。女性が抱っこするのにちょうどよい大きさで着飾った姿は『陸金魚』と呼ばれていたそうだ。こっちはまさに飼い犬だ。
●女性に抱かれる狆

                                                                               
だが、それ以外の犬は村犬、里犬、町犬といったように特定の飼い主を持たず、地域で人間と共存していたらしい。地域の人間は残飯などを与え、代わりに犬たちは縄張りに入ってくる怪しい人間に向かって吠えたりするような業務(笑)をしていたらしい。江戸末期 日本を訪れたイギリスの公使オールコックは夜間暴漢が襲ってきたのを昼間 餌を与えた犬に教えられ、間一髪難を逃れたのが記録に残っているそうだ。

その犬たちが、代参という形で地域の人間の代わりに伊勢参りに出かけた例があった。村では犬に村名や事情を書いた札を付けて若干の路銀を背負わせる。犬は親切そうな伊勢参りの人についていく(笑)。途中の村々は地域の代表として犬を歓迎し、餌や水をやったり、路銀をさらに与えたりもする。特に白犬は神の使いとして大事に扱われたという。そうやって伊勢へたどり着き、村へ帰ってきた例があったそうだ。中には出かける前より路銀が増えて帰ってきたこともあったという。
                               
もちろんすべての犬が伊勢参りに成功したわけでもないし、路銀を奪われたり殺されてしまったり、途中で雌犬についていってしまう例もあったらしい(笑)。だけど現実に犬が伊勢参りをし、それを人間たちが大真面目に助けるようなことがあったのだ当時の日本はなんと精神的に豊かだったことか! 犬たちには特定の飼い主はいなかったが、地域に根付いた存在だった。まさに宇沢弘文先生が言うところのコモンという概念が江戸時代には現実のものだったのだ

                                                                               
明治期になると里犬とか村犬といった風習は政府が禁止してしまう。欧風化ということで西洋風の飼い主という制度を強制したのだ。今 犬が飼い主に甘えるほほえましい姿を見ると、犬にとってどっちが幸せかはわからない。だが明治期に日本は結構いろんな伝統的な文化を失っているのだと思う。これもその一つだ。その代わりに押し付けられたのが日本の伝統とは何の関係もない靖国君が代といったインチキ官制文化じゃ、まったく割に合わない。まさに劣化だよ。政治家とか頭悪そうな評論家に限って日本の伝統とか口にするが、本当の日本的伝統はどういうものだったのか日本人は良く考えてみたほうがいい。
やっぱり日本の総理大臣は犬になってもらえばいいのだ!犬だったらクダラナイことは言わないし、集団的自衛権のような余計なこともやらないだろう絶対 今の奴より適任だよ! 少なくとも今エラソーにしている奴より犬の方が頭が良いことだけは間違いない。


                                        
新宿でスウェーデン映画『なまいきチョルベンと水夫さん


バルト海に浮かぶ自然豊かなウミガラス島に短い夏がやってきた。そこで暮らすチョルベンはちょっぴり太めの女の子。放し飼いのセントバーナード犬、『水夫さん』といつも一緒。ある日 漁師から網にかかったアザラシの子供をもらって、チョルベンたちはその世話に夢中になる。放っておかれた水夫さんはちょっぴり不満顔。ある日 牧場のヒツジやウサギが襲われるという事件が起きる。たまたま近くに居た水夫さんは村人たちから疑われてしまう。

長くつ下のピッピ』で有名なスウェーデンの児童文学者、リンドグレーンの原作『わたしたちの島で』を50年前に映画化、今回リマスターされて公開されたもの。ちなみにリンドグレーン高木仁三郎氏が97年に受賞したライト・ライブリフッド賞を94年に受賞しているそうだ。

わたしたちの島で (岩波少年文庫)

わたしたちの島で (岩波少年文庫)

●このDVDをリマスターして劇場公開。
わたしたちの島で わんぱくアザラシのモーセ [DVD]

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映画が始まって直ぐ、不覚にもウルウルしてしまった(笑)。画面に描かれるのは鄙びた漁港に長い陽の光。バルト海の短い夏の光景。水辺で遊ぶ子供たちとでかい犬。ボクの普段の生活とは全くほど遠い世界だが、懐かしさすら覚えるような、ほっとする光景だったからだ。人生の目標って、こういうことではないのかと思ってしまう。
●主人公のチョルベン。このぷくぷくした感じが可愛い

ここで描かれている田舎の子供たちが非常にかわいい。服を着たまま泥水や海に飛び込んだり、動物の世話をしたり、意地悪な大人に反抗したり、本当に生き生きしている。画面の中で嬉々と跳ね回っている子供たちはとても演技をしているとは思えない。登場する子供たちもお転婆なチョルベンだけでなく、悪口が得意な歯が抜けた女の子とか、気弱そうな男の子とか、皆キャラが立っている。みんな、優しいこどもたちだ。
邦題に名前が入っている割には、セントバーナード犬の『水夫さん』の活躍場面がそれほど多くないのは残念だったが、それでも子供が海に落ちたら、自分も飛び込んで、子供を身体につかまらせて犬かきで泳いだり、そういうシーンを見せてもらっただけでも非常に嬉しかった。
                                 
セントバーナードの『水夫さん』はいつも子供たちと一緒。

●アザラシの『モーゼ』と『水夫さん』

この映画では、大人たちがまた、大人なのだ。ここに出てくる村人たちはお金もなさそうだし、難しいことは判らなそうだ。いい大人が日がなハンモックで昼寝していたり、船のエンジンをかけられなくて子供にバカにされたりしている。そんな大人たちはふだんは子供たちを自由に放置している。だが、いざというときは子供たちに真剣に向き合い、言い聞かせ、対等に話し合う。そして子供たちに、問題は自分で解決しなければならないことを教える。
安全・安心とか騒いでいる割にはいい加減で、その反面 個人を全く尊重しない今の日本の社会とはいかに違うことか。今の日本では海に子供が落ちたら、柵を作れだの、監視員を置けだの大騒ぎだろう。学校のプール公開ですら、監視員の費用などが理由でどんどん減っているそうだ。だが、ここでは子供が落ちたら、犬が飛び込んで助けにいくだけだ(笑)。大人たちはそれで平然としている。村には店が1軒しかない50年前のスウェーデンの田舎町と物質的にはなんでもある今の日本の社会、どちらが成熟した社会なのか、つくづく思い知らされる。
●子供たちはアザラシのために自分たちでバイトを始める。小遣い稼ぎにおじいさんに話を聞くことを強要する幼児

●おだやかな村の暮らし。お父さんは庭のテーブルで書き物をしている。

大きな事件は何にも起こらない。美しい自然の中で、子供たちと動物たちが呑気に過ごしている。大人たちは適度に働きながら子供たちをただ見守っている。もっと金儲けしようとか、もっと便利になろうとか誰も考えない。日が暗くなったら寝て、夜が明けたら起きる。日々の糧を得るために働きはするけれど、ガツガツしたりしない。ヒマができれば、ハンモックでお昼寝だ。
●こんな光景を見ているだけで、世界がいかに素晴らしいか良くわかる


犬と子供が嬉しそうに跳ね回っている、それだけで世界がいかに豊かで素晴らしいか、この映画は教えてくれる。普段 見失っている物がいかに大きいか痛感する最高の夏休み映画。素直に感動しました。こういう映画がもっと増えてほしい。そうしたら世の中は少しはマシになるかもしれない。