特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』

 秋の気配が濃厚になってきました。今朝は久しぶりに薄いコートを羽織りました。
 10月も終盤、おせちだの、クリスマスだの、ボジョレ・ヌーヴォーだの、もうそんな季節です。
 最近は朝 家を出るのと夜明けが重なるようになりました。

 島耕作とかいう漫画は読んだことないけど、メジャーな出版社や漫画家がこんなバカなデマを振りまいているのだから呆れます。デモ行って日当をもらったことなんてボクは一度もない。これが日本の民度か(笑)。


 それだけでなく選挙のニュースを見ていると、どこの党もバカなことばかり言っているように聞こえます。裏金や統一教会の話は当然だとしても、あとは短期的なバラマキばかり訴えている。


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 給付金や減税なんかやっても一時的な話で、喉元過ぎれば直ぐ元に戻ります。
 将来 我々はどうやって食っていくのか。そういう話は与野党ともにない。とにかく自公を減らさないと日本の政治は機能しませんが、れいわや共産党のアホな寝言を聞いてると、かなりウンザリすることも確かです。

 れいわの候補者、長谷川ういこは首相官邸に突っ込んだバカと一緒に反原発デモなどで活動してたみたいですね。ま、元から左巻きのアホなのはわかっていたから驚くような話ではない。
 今度の選挙を契機に左のゴミはれいわへ、右のクズは参政党か日本保守党へ、とハッキリさせた方がわかりやすい。ゴミは吹き溜まりにまとまっていた方がよい。

 いずれにしても、とにかく自公を減らして、政治に緊張感を取り戻す。そのためには自分の選挙区で勝ち目がありそうな野党候補者に『戦略的な投票』をする。やれることはそれだけです。

 白紙とか棄権とかはバカのやることです。野党の候補者がいなかったら仕方ないのかもしれませんが(笑)。

 ま、とにかく選挙に行かないようなクズはさっさと北朝鮮へでも行ってくれ。


 と、いうことで、池袋で映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

 孤独な大道芸人の男が、絶対的な悪へと変貌するさまを描いた『ジョーカー』の続編。現代社会から虐げられてきた孤独な中年男(ホアキン・フェニックス)が連続無差別殺人犯『ジョーカー』に変貌してから2年後、獄中のジョーカーは世間から悪のカリスマとして祭り上げられる。裁判にかけられたジョーカーは刑務所の中で謎の女性リー(レディー・ガガ)と出会う。

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 前作「ジョーカー」に続いて、トッド・フィリップス監督とホアキン・フェニックスが再び手を組んだ続編です。19年に発表された前作は世界中で大ヒットしたばかりではなく、第76回ベネチア国際映画祭で金獅子賞、第92回アカデミー賞で主演男優賞を獲得するなど高い評価を受けました。

 孤独で心優しい中年男が社会から虐げられ、やがて絶対悪に変貌する姿には、ボクも本当に感動しました。それに影響された現実の模倣犯は甘ったれたクズ、ゴミ、カスですけど(笑)。

 と、同時にあまりにも迫真に満ちた作品は現実でも世界中にジョーカーの模倣犯を生み出しました。日本でも京王線で18人が重軽傷を負った殺傷事件の犯人がジョーカーの扮装をしていたのは記憶に新しいところです。

www3.nhk.or.jp
 
 今作も先行公開されたアメリカでは興行収入1位になりましたが、内容は賛否両論、論争が沸き起こっているそうです。

 かって無差別大量殺人、あまつさえテレビの生放送中に有名司会者を撃ち殺すという事件を起こしたジョーカーこと、アーサーは厳重に警戒された刑務所に収監され、かって起こした大量殺人事件の裁判を受けています。

 そこには、かってのジョーカーの面影はなく憂鬱で孤独な中年男、アーサーに戻ってしまった姿がありました。

 一方 檻の外の一般社会では現代の格差社会への異議申し立てをした英雄として、ジョーカーは半ば神格化され、無罪放免を要求する群衆が裁判所に押しかけるありさまです。ジョーカーとアーサー、このギャップは大きい。

 重罪犯の刑務所でおとなしく服役していたアーサーは軽罪犯の社会復帰用の音楽教室に連れていかれ、謎めいた女、リーに出会います。女はジョーカーに憧れ、自ら刑務所に入ったのです。女はジョーカーを神格化し、そして愛する。

 孤独な中年男、アーサーは次第にジョーカーへ戻っていきます。リーはジョーカーに影響され、アーサーはリーに影響される。 

 『フォリ・ア・ドゥ』とは精神病の用語で、狂気が伝染する、という意味だそうです。見事な不条理劇です。

 お話はジョーカーの裁判を巡る法廷劇が中心です。地味と言っても良い筋立てですが、全く地味ではありません。
 ダークな前作のイメージをかなぐり捨てるかのように、全編ミュージカル仕立てです。ホアキン・フェニックスレディ・ガガが全編に渡って歌い踊る。

 それ自体は悪くない。
 ただ、このミュージカル・シーンは平凡なんです。すごく良いとか、驚くとかそういうのはない。歌も音楽もフツーです。

 半年前 映画館で見た予告編ではジョーカーとリーが躍るシーンがありました。バート・バカラックの『世界は愛を求めている』が流れているのを見たときは鳥肌が立ちました。


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 ジョーカーという映画で敢えてロマンティックなバート・バカラック、それも(ベトナム戦争反戦のシンボルの一つでもあった曲を使う。素晴らしいと思ったんですが、本編は全然そんなことはなかった(笑)。他の曲と同様に、普通に流れていってしまうだけ。

 もともとボクは、レディ・ガガの歌ってあまり良いと思いません。歌手としてのレディ・ガガはとびぬけたキャラや衣装で有名ですけど、歌だけだったら凄くうまいとか際立った個性があるわけではない。音楽的にも別に新しくもなんともない。歌だけなら、普通のちょっとうまい歌手であるだけ、だと思う。

 この人は演技力はあるから、むしろ女優の方が向いている。近年の彼女が映画出演が多いのは自分でもわかっているのでしょう。この映画でも、むしろホアキン・フェニックスの歌の方が味があってよかった。

 ミュージカルシーンで感動するというのは殆どなかったんです。良かったのはアーサーがジョーカーに変貌して殺しまくる裁判所のシーンくらいか。勿論、どのシーンも豪華絢爛なセットだし、見ていて楽しいんですけどね。 

 お話には前作のように、理不尽な世の中に虐げられた者が社会に復讐するというカタルシスはありません。
 むしろ監督はジョーカーという悪のカリスマを徹底的に相対化し、否定する。

 そこまで幻想を破壊しなくても、とは思いましたが(笑)、監督は前作で現実にジョーカーという負の化け物を生み出してしまったことへの落とし前をつけようとしているかのようです。

 おそらくここが今作を否とする人が多い理由なんでしょうけど、ボクは別に悪くはないと思う。ある意味、この筋立ては古典的な悲劇、シェイクスピアみたいです。

 前作に続いて、ホアキン・フェニックスの演技は尋常じゃありません。レディ・ガガの演技も悪くない。
 ここにあるのは悲劇です。世の中の矛盾や理不尽さに対する鬱屈を抱えた弱き者がたどる悲劇。そしておそらく再び、その悲劇が繰り返されるであろう悲劇という二重構造になっている。このプロットも悪くない。

 それに血肉を与えているホアキン・フェニックスの演技は最初から最後まで素晴らしい。囚人、しかも惨めな中年男、アーサーの役とは言え、あんなに痩せてしまって身体は大丈夫だったのか(笑)。

 ある意味 普通によくできた映画です。全然悪くない。
 だけど前作のような熱狂、狂気の祝祭(笑)みたいなものはない。それはそれで良いんだけど、ミュージカルシーン、音楽が凡庸だから盛り上がらないのも事実でした。音楽だけでも もっと尖った、例えば先週 取り上げた『シヴィル・ウォー』のように、せめて音楽がカッコよかったら印象は全然違うとは思いました。


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