特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

我々は何を抱えて生きていくのか:読書『国貧論』と映画『シン・ゴジラ』

敗戦記念日の今日15日 SEALDsが解散するそうです。ボクとしては沢山のことを気付かせてもらって、彼らには感謝しかないです。14日の朝日朝刊で安保法反対の(オールド)市民運動、『総がかり行動』の高田氏が『SEALDsが居なくても野党共闘はできたかもしれない』とか言ってましたが、相変わらず頭が悪い(笑)。集会での挨拶すら何を言ってるか判らないような、薄汚い恰好の爺さんたちがいくら血眼になっても、どれだけの人が耳を傾けると思っているのでしょうか(笑)。
●結局 こういうことでしょ(笑)。

                                                    
世の中の環境が大きく変化していく中で、人々が反対する行動のやり方や主張だって変わっていくのが当然です。それを可視化させることで、人々の意志表示の新しいやり方を切り開いたというのが、あの子たちの大きな功績です。ここ数年 公民権運動を描いた映画を観て『現実を本気で変えるために頭を使っているところが、日本の左翼とは大違い』と思っていたら、本当にそういうプラグマティズムを体現する子たちが日本にも出てきた。びっくりですよ。
沖縄を除いて、彼らが期限を決めて解散するのも筋が通っています。元来 世の中を良くする主戦場は、普段の生活の中にあるのですから。年長者として彼らに恥ずかしくないよう(笑)、絶えず変わり続けていく自分でありたい、と思います。
●安保関連法案に反対する学者の会安全保障関連法に反対する学者の会の声明:私たちが受け継ぐSEALDsの7つの成果http://anti-security-related-bill.jp/images/poster160808.pdf
●SEALDsのラストメッセージ『To Be』。確かに1年前とは目の前に広がる景色はずいぶん変わったと思います。
2016年8月15日、戦後71年の節目をもって、SEALDsは解散します。 | POST


                           
さて、夏休み、2冊目の読書は水野和夫先生の新著『国貧論

国貧論(atプラス叢書14)

国貧論(atプラス叢書14)

水野和夫先生の本はこの15年くらい、たぶん全て読んでいますが、言ってることは基本的には変わっていません。
現在は人類の歴史を振り返っても、かってない水準の低金利に陥っている。金利とは資本主義にとっては期待しうる将来の利益であり、現在の低金利は資本主義が限界に来ていることを示している。資本主義の考え方自体を見直す時期が来ている。』
こんな感じでしょうか。
確かに日本以外も含めて先進諸国は低成長時代に入っています。人口が増え続けているアメリカでさえ、L・サマーズ元財務長官が成長の限界を指摘するような時代です。これは多くの人にとっての共通認識ではないでしょうか。フェルナン・ブローデルなどの議論を下敷きに『現在は時代の変り目に入っている』とする水野氏の議論は非常に説得力があると思います。
で、問題はここから、です。資本主義はもうオシマイだ―と短絡的に考える向きもあるかもしれませんが、水野先生はそんなことは一言も言ってない(笑)。現実にはアフリカなど新興国にまで、ある程度の経済成長が行き渡るまで数十年はかかります。残念ながら我々が生きている間は資本主義は終わらないでしょ(笑)。それにAIや遺伝子工学などの新たなイノヴェーションが生まれて、かっての蒸気機関やITのように新たな経済成長を生み出すかもしれない。その可能性は水野氏自身もボクも聞きに行った講演会で認めていました水野和夫氏講演会『資本主義の終焉と歴史の危機』と『0612戦争法案に反対する国会前抗議行動』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)。彼曰く『そのような可能性は無いわけではない。でも、その頃私は生きてないから(笑)』だそうです。そもそも水野氏が言ってることは過去の歴史の延長線上の話ですから、非連続的な変化が起きる可能性はいくらだってあります。

                    
今回の本は、水野氏がここ1,2年、雑誌などに掲載した論考を纏めたものです。こういうことを前提に以前より具体的に議論が進んでいきます。
小泉内閣以来の成長戦略は成果を上げていないし、中流以下の国民の実質賃金はむしろ低下傾向にある。国は貧しくなっている
・近年の政策、マイナス金利やROE重視などは更に格差を広げていく。中世のように相続財産によって人々の暮らしが左右される傾向はますます強まるだろう。将来は『新しい中世』のような時代になるのではないか。


水野先生が言うように、近代社会の『成長は全てを癒す』が終わったとすると、リベラル派などが唱えている従来の社会福祉や再配分のやり方だって存続不可能です。そうなってくるとやり方自体も変わっていかなければいけない。現代の日本では殆ど無視されている金融資産や金融取引の課税だって行わなければならないでしょう。
また水野先生はグローバリゼーションは周辺と中央を作り出すシステムであるとしています。その行き着く先は格差拡大による際限のないバブルの生成と崩壊、そして混乱です。その弊害を小さくするためには、経済のブロック化が進むし、国内だってブロック化して地域ごとの差異を作っていかなければいけない、としています。ごく一部を除けばナショナル・ブランドなんて無意味だというのですね。
特に第2章の『資本主義の黄昏』が面白かったです。国内スーパーの売上高伸び率とGDPギャップの間に強い相関関係がある近年の原油安からBRICSなど新興国の経済成長は早くも頭打ちになっていくのではないか、などの分析、それに『利率ゼロの次に来るものは配当ゼロではないか』というのは文字通り目からウロコ、でした。
結局 経済成長が当たり前ではない、これからの時代に我々はどうやって生きていくか、それをより深く考えさせられる内容の本でした。水野氏の最近の著作では、久々に知的興奮を覚える本でした。


さてさて、話題の映画『シン・ゴジラ』。当初はスルー予定でしたが、あまりの評判の良さに足が動きました。我ながら腰が軽い(笑)。

結論から言うと、良かったです。かなり良かった。今回は傑作だった第1作以降 最良のゴジラ作品、と言われているのもうなずける。莫大な製作費をつぎ込んだハリウッド版にも勝っていたと思います。
                                 
今回はネタばれなしでは書けないので、ご容赦ください。
東京湾に突如謎の物体が現われ、海底トンネルを破壊した。首相官邸での緊急会議で内閣官房副長官の矢口(長谷川博己)は海中に潜む謎の生物の可能性を指摘する。やがて巨大生物は東京に上陸、大田区、品川区を荒らしまわるが、突如海底に消えてしまう。政府は右往左往するが、法的問題や省庁間の調整を乗り越えて何とか巨大生物の再度の上陸に備える体制を構築することに成功する。やがて現われた巨大生物は前回より巨大化しており姿も二足歩行の形態に進化を遂げていた。自衛隊の防衛線は軽々と突破され、米軍は爆撃機で超巨大爆弾、バンカーバスターで攻撃するが、巨大生物は放射性物資を含んだ炎を吐いて爆撃機を撃ち落としてしまう。その後 巨大生物はエネルギーを使い果たしたように東京の真ん中で動きを止めてしまう。再び巨大生物が動き出す前に、アメリカや国連は核爆弾で攻撃しようとする日本に3度目の核爆弾を落とそうというのだ。一方 矢口率いる日本政府の対策班は何とか他の手段で巨大生物を葬ろうとする。果たして東京で核爆弾が使われてしまうのか

長谷川博己演じる官房副長官。今回も良い意味で怪演、です。

この映画には前置きも背景説明も殆どありません。映画が始まって数分で直ぐ巨大生物が現われます。そしてものすごい情報量です。お話も登場人物の超早口な台詞も、まるで洪水のように流れ続けます。そもそも、この映画は怪獣映画ではないかもしれない。ゴジラより会議のシーンの方が長い強いて言うなら、政治映画でしょうか。政府の中の煩雑な手続きや会議の模様が延々と描写されます。何十人も集まって延々会議をやってるって凄いですね。そもそもまともな会議をやろうと思ったら参加者は10人が限度でしょう。実際 アメリカ大統領の意思決定など僅か数人でやってますよね、映画で見る限りですけど(笑)。制作側は官邸などへ綿密なヒアリングを行ったそうですが、非常にリアルな描写のように見えます。そういう光景を見ながら、日本と言う国は通常と違うことが起きた場合、どう対処するのか、どう対処できるのか、ということを執拗に観客に見せつけます。
そう、まるで311を再現しているかのようです。
官房副長官は各省庁のはぐれ者を集めて対策チームを作ります。

                          
核廃棄物を食べて突然変異したゴジラが、放射性物資をまき散らしながら東京を破壊して回るのもまさに311そのものです。ゴジラが破壊した後の街はまるで津波の跡のように描写されます。そして震災当時の汚染マップがもう一度、今度は東京で描かれるのです。
●311で言えば官房副長官長谷川博己福山哲郎、総理大臣補佐官の竹野内豊細野豪志と言ったところでしょうか。

                                          
一応 主役と思えるのは官房副長官を演じる長谷川博己です。この人、男前のルックスにも関わらず、園子温映画での怪演が印象に残っていますが、ここでも怪演を見せます。今回も表情を全く変えないまま、ゴジラ対策に奔走します。
この映画、出演者は300人くらいいるそうで、原一男岡本喜八など、えッと驚くような人までいます。この映画では出演者は記号、なんです。その中で最大の問題点は多くの人が言っている通り、石原さとみでしょうか(笑)。英会話学校イーオンのCMに出ている彼女ですが、下手くそな英語はアメリカ政府特使の日系人とはとても思えません。イーオンは困っているでしょう(笑)。この人が画面に出てくるたびに話がお笑いになってしまう。ルックスは可愛い&妙にエロいので、それはそれでいいんですが(笑)。
●意味もなく無駄にエロいという点で、石原さとみも怪演かも(笑)

                        

音楽は最高です。伊福部先生の過去のゴジラシリーズの曲とエヴァンゲリオンの音楽を担当している鷺巣詩郎の曲が交互に流されます。単にゴジラの音楽を使うだけでなく、怪獣大戦争など過去の名作まで使われるんですから、いや、これは盛り上がります。このこと一つとっても、この映画には過去作品へのリスペクトに溢れています。
ゴジラが上陸する場所も第1作とほぼ同じです。

                                   
1954年のゴジラ第1作は第二次大戦の鎮魂と核の恐怖がテーマでした。実際に元特攻隊員だったといわれる平田昭彦大先生レインボーマンのミスターK!)が演じる芹沢博士が自らの身を投じてゴジラを海底に葬ります。でも 今の我々には倫理と科学の両立に悩む芹沢博士は居ない。
それでも今回のゴジラはその延長線上にあります。お話、演出、音楽、ディティール、それらを総動員して、終戦から現代までの日本の歩み、アメリカとの関係をたどりながら311にたどり着く。 311の悔恨と鎮魂も描かれる。そして、その後、どうやって生きていくかを提示しようとしています。
                                                  
この映画が提示する『スクラップ&ビルド』という概念に感動する人もいるかもしれません。まるで小池百合子橋下徹が大衆扇動に使いそうな安っぽさでもあります(笑)。ここで描かれる覚醒する日本の姿に、ネトウヨも頭が悪い左翼も手をつないで?感涙にむせぶのが目に浮かびます。どっちも似たようなもんです(笑)。そう言う連中に限って現実には実務能力は皆無、会議一つ仕切れないんですから(笑)。また、第1作と異なり政府の面々からの視点しかない、外国人がまともに描写されない、などには流石に抵抗は感じます。
この映画にそういう危うさがないわけではない。物凄いスピードで進む話を面白いなあと思いつつ、どこか覚めた自分も感じました。何と言っても、これは国際的なコンテンツであるゴジラ映画です。映画を観るであろう外国人、例えばアメリカや韓国、中国の人がどう感じるのか、とも思ってしまいます。良くできているからこそ、普遍性ってことを考えてしまうんです。
でもうさだけではない。この映画の中で、ゴジラの出現を予言して死んだ科学者は映画監督の故岡本喜八(写真出演)です。『肉弾』などの作品で、太平洋戦争で無駄死にさせられた兵士を執拗に描いた監督です。主人公たちも実際に『かっての日本軍みたいになってはいけない』と何度も口にします。まさに、意識的です。この映画は、戦後の『永続敗戦論的な日本』だけでなく『(安倍晋三が大好きな)戦前の日本』も含めて、日本と言うシステムをスクラップ&ビルドしようとしている。そもそも この映画自体もメタ構造として、従来のゴジラ映画をスクラップ&ビルドしています。『スクラップ&ビルド』は許してあげましょう(笑)。
自衛隊ゴジラの死闘も妙にリアルでした。ゴジラを従来からの着ぐるみでなくCG化したことの功名でしょう。

                                                 
もっと重要な話があります。『シン・ゴジラ』で、日本が選んだ手段はまさに核の石棺です。最近も政府はフクイチの石棺化を懸命に否定しています。それが正しいのかどうかはボクにはわからない。だが、少なくとも我々はまがまがしい核という存在を無視することはできない。事実として、今すぐ核や原発、核廃棄物を消し去ることはできない。だとしたら我々はなんとか共存して、抑え込んでいく術を探さなくてはならない。それが現実です。
深呼吸して、もうちょっと概念を広げましょうか(笑)。さっきの水野先生の本とも絡みます。普通に考えると2050年くらいまでは日本の少子高齢化は避けられません。これからの日本は経済が徐々に縮んでいくわけです。それは最良のケースで、です。戦争や災害、経済危機などで、日本経済や社会などがクラッシュする、もっと酷いことだって、いくらだってあり得る。
                                                       
我々はそういう時代を生きなければいけないかって経験したことがないこと、つまり経済の縮小、核や安全保障上の脅威、社会の不安定化は避けられそうもない。でも、そこで失望したり絶望したりする必要はないんです。正確に言うと、そんな暇はない(笑)。だって我々は陰謀論やウソに踊らされるバカじゃないんですから。
そんなくだらないことを議論している暇があったら、日本のそちこちに点在する希望、よりマシなものを拾い集めて、頭と身体を使ってやってみるしかない。SEALDsの子たちもそうでしたよね(笑)。覚醒する日本を描いているこの映画でも、実は登場人物は誰も覚醒なんかしていない自分で考え、自分で出来ることをやっているだけです。今さら覚醒する日本なんか要らない(笑)。そういうことです。我々はまがまがしい石棺と一緒に生きていけるでしょう。いや、亡くなった人たちのためにも、我々はまがまがしさを抱えて生きていくしかないんです。

                                          
ボクがここに書いていることは一つの見方に過ぎません。この映画には色々なストーリーがタペストリーのように織られています。圧倒的な製作費のハリウッド版に対して、情報量で対抗したといえるかもしれません。それもまた、日本の可能性です。
そうそう、この映画では官邸前抗議も描かれます。それに過剰反応する人もいるみたいですが、まあ、それは関係ないかな(笑)。

                                       
と、まあ、『シン・ゴジラ』は面白いし、色んなことを考えさせる映画です。それだけでも優れた映画だと思います。