特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

2015年の夏を振り返って&映画『ヴィンセントが教えてくれたこと』

安保法案に対する反対が盛り上がった2015年の夏、学ぶことがたくさんありました。法案は通ってしまいましたが、個人的に考えさせられることが多かったんです。
振り返ってみると、ボクは6月12日にSEALDsの集会に参加し始めました2015-06-12 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)。その時 国会前での彼らの集会はたぶん2回目で、集まった人は1000人くらいでした。秘密保護法が成立するとき、彼らの前身のSASPLが議員会館前で理路整然と抗議しているのを見て、彼らはきちんと勉強している(往々にして反対派ってバカも多いので)と思ってましたけど、安保法案に対する抗議が始まったときは果たして効果があるのか半信半疑でした。それでも自分が反対なのは間違いないので、抗議に参加して意志を表明できればいいや、と思ってました。けれど、見る見るうちに参加人数は数万の単位に膨れ上がっていった。

その盛り上がりはマスコミの取り上げ方もありますけれど、彼らの存在自体が今までと変わっていた部分があるのも大きいんでしょう。やっぱり彼らの集会はスピーチも新鮮だし、コールも楽しかった。3年前 反原連の抗議が始まったとき同じことを思いましたが、SEALDsの子たちは自分たちも認めているように311以降の市民社会の変化が生み出したもの、その延長線上にあるものだと思います。

2015年の夏、ボクはこんなことを感じました。
(1)個であることの大切さ
SEALDsの子たちも一枚岩ではなく色々な考え方があります。例えば奥田君は自衛隊合憲、ラップで前面に立ってたUCD君は自衛隊違憲だから改憲するべき、と言っています。それが良いんですね。九条命の頭が悪い左翼バカは『SEALDsは(体制側の)トロイの木馬だ』と言ってました。中核派は『SEALDsは反動』、ネトウヨは『SEALDsは極左』、『在日の成り済まし』と言っています(笑)。自民党の議員が『共産党の別動隊』と言ってたのも記憶に新しい。一体、どれなんだよ(笑)。
そういうことを言っている連中は人間を個として捉えられないのです。自分の頭で考えられないのです。その点 右左は関係ないのがとても面白い(笑)。きっと彼ら自身が個がないんですね(笑)。ボクが組織とかに一切、関わろうと思わないのは、右も左もほとんどの組織は個を圧殺する存在に見えるからです。自民党日本会議共産党も本質は同じ(笑)。かってのべ平連は違ったのかもしれませんが、ボクが物心ついた時には存在してなかった(笑)。
                                        
SEALDsの子たちは、自分の頭で自由に考えているように見えます。だから彼らの内部でも色々な考え方があります。どこかの誰かや組織が言うことはそのまま真に受けない。その上で最大公約数を見つけて、連帯する。更に多くの人に受け入れてもらうためには過激な事や間違ったことを言わない努力も必要です。彼らはスピーチは事前に読み合わせして間違いチェックをしていたそうです。iPhoneを見ながらの彼らのスピーチは拙いところもありましたが非常に感動的でした。陰にはそういう努力があったわけです。
スピーチで彼らは常に日付と自分の名前を名乗っていましたが、彼らはあくまでも個人としての立場に立脚したことしか言わなかった。既存の政治家や運動家のスピーチとはずいぶん違う。でも我々だって所詮は一個人です。だから共感できる。
そういうことの積み重ねで参加人数が増えていったのだと思います。この前読んだ『民主主義ってなんだ』の中で彼らは『民主主義は違う誰かと共生する能力』って言ってました。多様性がどんどん増していく世の中で『他と共生する能力』は非常に重要なんだと思います。そのためには従来からの組織の方針や金科玉条を守り通すことではなく、状況に応じて常に考え、変えていかなくてはならない。
結局 大事なのは個であること。自分で考え、自分で行動することなんだと改めて思いました。

民主主義ってなんだ?

民主主義ってなんだ?



(2)ラップはレベル・ミュージック(反乱の音楽)だった
SEALDsの子たちのシュプレヒコールはビートを使ったり、参加者と掛け合いをやったり、ラップの影響を受けています。しかしラップを取り入れたのは彼らが初めてではありません。例えば各地で使われている『言うこと聞かせる番だ、おれたちが』はラッパーのECD氏のライムですが、2012年から反原発運動の中で使われていますし、その他の例も一杯あります。
彼らが新しかったのは自分たちの気持ちを表現し、共感を得る道具としてラップを使ったことです。70年代 パンクロックはカネも演奏技術も最低限しかない若者が日頃の不満を訴えるために始めました。80年代 ラップは楽器も買えないし、演奏する技術すらない黒人たちが始めました。カネも演奏技術もない。あるのはリズムとライム(韻を踏んだり工夫した歌詞)、それにユニークなアイデアだけ。しかし、いつしかラップも黒人のポーズだけ真似する形式だけのものに成り下がっていました。ボクはそういう類はあまり好きではありません。

ところが、ビートに載せて様々な主張を入れていくSEALDsの子たちのコールは、リズムがあって楽しいし、使われる言葉も身近だし面白かった。『勝手に決めるな』のような短いけれど本質を突いたコールや、『民主主義ってなんだ』/『これだ』 、『Tell me what democracy looks like』/『This is what democracy looks ilke』、などの掛け合いもありました。ちなみに早口で高年齢者に評判が悪い最後の掛け合いはオキュパイ・ウォールストリートの様子をネットで見てパクったそうです(笑)。
                                       
現場にいると、まるでライブハウスで踊っているような感覚でした。自然に体が動く。抗議の場ですけれど、正直言って楽しかった。しかもコールは日を経るにつれて変化していったし、トラックを入れたり色々な工夫もなされていた。百年一日が如く、いつも決まりきったコールしかしない連中とは大違いです。
                                          
残念ながら、集会は抗議の声を可視化する場であって、考える場にはあまり向いてないと思います。勿論ためになる話を聞けるときもありますが、長々とつまらない話や論理的におかしな話をされるとシラケるし、聞く側も理解できません。SEALDsの抗議は熱狂ばかりで頭を使ってない、と指摘する人は上っ面しか見ていない。考えるのは集会ではなく、自分一人で静かにやるものです。彼らの発言やコールは影の沈思黙考に基づいています。ノリを考えてはいるけど間違ったことは言わない。計算している。だから、集会での盛り上がりがあるのです。それと比べるとTVや国会の答弁の方がその1億倍も酷い。特に最近のTV番組は映像を伝える機能はあるかもしれませんが、議論や考えを伝える機能なんか皆無、です。
コールにラップを取り入れたSEALDsの子たちは慧眼でした(単に好きな子が居ただけ、みたいですが)何もない路上で人々の盛り上がりと共感、それに楽しさを呼び起こす道具としてラップは立派に機能していました。抗議の声や感情は見事に可視化されたのです。ボクは音楽としてはロックの方が好きですが、今はデモや集会ではラップの方が良い、と思うようにすらなりました。今 アメリカでは昨年のファーガソンでの黒人射殺事件以来 人種間の緊張が高まり、それが反映されたラップがどんどん出てきています。アカデミー主題歌賞をとった映画『グローリー』の主題歌がその典型です。ラップは元来のレベル・ミュージック(反乱の音楽)としての意味を取り戻しつつある。ちょうど同じ時期 日本の国会前でも同じことが起きていたのは非常に面白かったです。
デザイン性の高いSEALDsのプラカードもそうですが、ボクのような一般人が自分の意志をどう表現していくか、非常に考えさせられる出来事でした。

●安保法案が成立した未明、まだ路上にいたSEALDsの子たちはパブリック・エネミーの『Fight The Power』(約20年前のこの曲の歌詞を間違えているのはご愛敬)と日本のラップ歌手、田我流の『やべえ勢いでスゲー盛り上がる』をコールしました。まるで映画の1シーンみたいです!

●『言うこと聞かせる番だ、俺たちが』(Straight outta 一宮)も入っています。

B級映画のように2

B級映画のように2


(3)オールド左翼は無能だった
SEALDsの子たちの生き生きとした発想やスピーチに触れて痛感したのは、既存の左翼?がとことん無能だったことです。今回の安保法案に対しては、共産党系、社民党系などの各種団体が合同して『総がかり行動実行委員会』と称して抗議活動を行いました。合同したこと自体は立派だし、普通の人は仕事がある平日昼間(笑)に座り込みをするなどの活動はすごいと思います(効果があったかどうかは判りませんが)。
                                               
彼らの集会にも何度か参加しましたけど、悪いけど内容は酷かった。主催者側はコール役の女性を除いて、殆どの人は60代以上の男性です。スピーチのマイクを持つと、言ってることは論理的に何を言ってるかわからない、(誰も知らない)自分たちの団体内の肩書にこだわるやたらと話が長い、殆ど嫌がらせのようでした(笑)。昔よく企業の朝礼で、仕事はできないけど話がやたらと長いジジイが居ました。あれと同じです(笑)。企業ではそういう人は段々いなくなりました。長引く不況や高齢化で、はっきり言って淘汰された。でも、市民?運動にはまだ生きた化石みたいなのが残っている。競争もないし、定年もないし、多分やる気もない。表向きはともかく、内心では呑気に自己満足しているだけじゃないでしょうか。取り柄は非暴力、ということくらいかな。
ボクだけならそれでもいい。それを問題視するのは、それでは抗議に多くの人を集めることができない、と思うからです。この法案はおかしい、と思って来た人が、誰が好き好んでジジイの長くて退屈な話を聞いたり、決まりきった訳の分からないシュプレヒコールをしたいと思いますか?

                                                
決定的にボクが頭に来たのは9月になって過激派が抗議に参加するようになったのに、主催のオールド左翼の面々は何もしなかったことです。過激派の連中は警察に因縁を吹っかけて暴力沙汰を引き起こすことを狙っていて、16日には逮捕者が出ました。その日以降 一部の人が自主的に過激派の暴力沙汰を排除したことで、誰もが参加できる安全な抗議の場が確保されたのは以前 書いた通りです。それ以降 逮捕者はありません。そんなこともあったのに法案成立後の9月23日の渋谷デモでも中核派が梯団の一つの先頭に陣取っていました。主催者のオールド左翼の面々は何も反省していない。ちなみに反原連は当初から抗議への過激派の参加を断固として拒否していたし、SEALDsの面々も同様です。奥田君は場が荒れそうになると、抗議を中断して『ボクらは抗議をずっと続けていたいんです。落ち着きましょう。』と群衆に懸命に呼びかけていました。何があっても知らんぷりのオールド左翼とSEALDsの子たちは全く対照的でした。歳をとるとか経験を積むってどういうことなのか、考えてしまいます(笑)。

                                             
今まではオールド左翼の面々はそういうものかと思っていたし、彼らにも良いところはあるからと、それほど気にならなかったのですが、今回 この人たちは時代遅れで無能であるのをつくづく痛感しました。
はっきり言って、この人たちは全くダメ、です。オールドであることが悪いんじゃありません。この人たちは物事を考えることもできないし、多くの人を集めることもできないし、多分集めようとする気もない。彼らの中にも色んな人が居るでしょうけど、多くの人は誰かの指示で惰性で反対運動をしているだけでしょう。個じゃないんです。以前 村山トンちゃんが、社民党はさっさと解散したほうがいい、と言っていたのは、普通の人たちの感覚と遊離したオールド左翼全体に当てはまる。戦後日本で彼らの果たしてきた役割はほぼ終わった、のかもしれません。

                                                                                           
●結論:2015年夏 日本は変わったのか。
デモで日本は変わったのか?という問いに対しては、ボクは『変わった』と自信を持って答えることができます。あれだけ大勢の人が自主的に路上に出て声を挙げたのは今までの日本では考えられないことです。安保法案は成立してしまいましたが、政治情勢がどう変わっていくかはこれからでしょう。国立競技場の件だって、安保法案への抗議があれだけ盛り上がらなければ見直しなんて行われなかったでしょう。それまで政府は全く拒否してたんですから。
昨日 DVDが発売されたばかりの傑作『パレードへようこそ2015-04-27 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)の特典ドキュメンタリーを見て驚きました。今の日本とそっくりなんです。映画を見た5か月前はそんな感覚無かった。1984年、本当に効果があるか半信半疑だったけど、それでも人々は街角から声を挙げた。映画を見ればわかりますが、その結果が巡り巡って昨年のイギリスでの同性婚合法化につながっているんです。

                                          
2012年の夏 反原連の抗議は最大で20万人とも言われる参加者を集めました。あまりにも大勢の人で国会前の車道が解放されたあの時 ボクは日本は変わったと思いました。ですが今は抗議への参加人数は減ったし、川内原発の再稼働も行われてしまった。変わったと思ったのは幻想だったのでしょうか。でも これだけ長い時間 原発の再稼働を止めた、というのはあの時の抗議がなければ考えられません。あんなに強大だった原発メーカーだって、今や殆ど全てが青息吐息です。学生の時 直接話を聞いた故高木仁三郎氏は、ボクの目の前で『原発メーカーの力は凄いんだよ』と深い嘆息を漏らしていました。そのことを考えれば、今の状況は信じられないくらいです。
●2012年夏@国会前
 
                                                                                                         
2015年の夏 最大で10万人とも言われる参加者が安保法案への抗議に参加しました。2012年だって普通の人が多かったけど、今回は若い人が本当に増えた。これからどうなるのか、まだわかりません。
●2015年夏@国会前
 
                                                       
きっと世の中の変化というものは徐々に起きていくものだと思います。最初の変化はゆっくりなのかもしれません。だけど気が付いたら目の前の景色は以前とは全く変わっている。きっと、今はその過程です。写真を比べてみると、2012年より2015年の方が人々の、自ら主張しようという意思をより強く感じます。プラカードの掲げ方が違うでしょ(笑)。確かに変化は進んだんです。政府は酷くなったけど(笑)、それに抗議する普通の人、自分で考えて自分で行動する人は増えた。
自分で考えて自分で行動し続けることは困難なことでもあります。オールド左翼の面々だけじゃなく、例えばオリンピック組織委員会の無責任な言い訳を聞いても、個人で有り続けることの困難さを感じさせられます。サラリーマンのボクにとっても他人事ではありません。
でも、新しい種は蒔かれました。これからも変化は進んでいくのでしょう。もしかしたら家電製品の普及のように、一定レベルに達すると爆発的に広がっていくのかもしれません。




                                       
                                                            
さて、六本木で映画『ヴィンセントが教えてくれたこと』。昨年のゴールデン・グローブ賞2部門ノミネート作品。

ヴィンセント(ビル・マーレイ)は一人暮らしの老人。財布はギャンブルとアルコール三昧ですっからかん、しかも気難しい性格の毒舌家。家に出入りするのは気心の知れた妊娠中のストリッパー兼売春婦(ナオミ・ワッツ)だけ。そんな彼の隣にシングルマザーと息子(ジェイデン・リーベラー)が隣に越してきます。ある日 転校先の学校でイジメにあって携帯と財布をとられた男の子が電話を借りにきます。臨床検査技師の母親は残業から抜けることができず、ヴィンセントに無理やり少年の世話を頼みこむ。
                               
傑作『ロスト・イン・トランスレーション』以来、『中年の危機を迎える男』はビル・マーレイのはまり役でした。失われていく若さに対する焦り。しかも歳を重ねることによって物事が判ってきて、自分のダメさもますます判ってくる。でも、これで終わりたくないし、終わりじゃないんじゃないか、という男のバカさ(笑)。葛藤する中年男のモラトリアムぶりはユーモラスではあるんですけど、真剣に考えると暗〜い気持ちになります(笑)。新宿のホテルを舞台にした『ロスト・イン・トランスレーション』の中年モラトリアム男は他人のこととは思えませんでした(笑)。

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]

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今回のビル・マーレイは不良ジジイ役で新境地を開きます。ただ年取っただけだろって(笑)。主人公のヴィンセントは60をとうに超えているのに酒とギャンブル、ストリッパー、他人に対しては嫌味と毒舌ばかり。小銭稼ぎの為に嫌々男の子の世話をしても、競馬場やバーへ連れて行く始末です。そのでたらめぶりは観ていて、さすがにボクも嫌いになりました(笑)。それだけビル・マーレイの演技がうまいんですね。
●ボロ車、アルコール、サングラス、不良ジジイを演じるビル・マーレイ

                               
一方 彼の隣家のシングルマザーは生きることに必死です。職と子育てを両立させなければいけませんが、仕事は忙しく、小学校低学年の息子の世話を十分にしてやることができません。無理をすれば仕事を失ってしまう恐れすらあります。ヴィンセントの家に出入りする妊娠中のストリッパーもそうですが、この映画の中で描かれる女性たちは非常に厳しい環境に置かれている。この映画、彼女たちへの描写は非常にリアリティがありました。日本にも共通する、こういう腐った社会の構造を忘れてはいけない、と言っているかのようです。
●臨床技師のシングルマザーは息子と一緒に生きることに必死です。

●妊娠したストリッパー兼売春婦という難役?のナオミ・ワッツ

                                              
一方 父親がいない男の子は不在の父親の像を不良ジジイに重ねます。喧嘩の仕方を教え、バーや競馬場へ連れて行き、大人の遊び方?を教える。一緒にTVを見て、料理を作り、男の子と長い時間を過ごす。不在となった父親像の提示は良くあるパターンですが、男の子役のジェイデン・リーベラーくんが非常に良いんですね。バーの席に座ってコーラを飲みながら、ダメダメな大人たちの姿をある意味 透徹した目つきで眺め、許している(ように見える)。彼の存在が物語に説得力を与えている。この作品に出演して以来オファーが殺到しているそうですが、さもありなんという感じです。
●喧嘩の方法を教える不良ジジイ

                                     
この作品に共感できるところは人生を性善説で見ているところです。不良ジジイははっきり言ってロクでもないし、女たちを取り巻く環境は厳しい。だけど監督が彼らを見る視線は常に暖かです。登場人物たちは誰も、一歩間違えば人生そのものを棒に振ってしまいそうですが、ぎりぎりのところで踏みとどまります監督の視線は男の子が大人を見る視線とも重なっているところが実にいいなあ、とおもいます。
●不良ジジイを見るに見かねて、親子と売春婦との間に奇妙な友情関係が生まれます。まるで新たな家族のようです。

                                                
やがて男の子は不良ジジイには認知症の妻を老人ホームに見舞い続ける別の面があることを知ります。彼はそのために全財産をはたいていたのです。挙句の果てに不良ジジイも脳溢血で倒れ、とうとう男の子は彼と引き離されてしまいます。そんな時 男の子の学校では父兄を招いての課題発表会が開かれることになります。

                                                                  
あらすじは想像できるんですけど、最後にはやっぱり嬉し泣きをさせられてしまいました。でも、そんな観客の涙を笑い飛ばすかのように、エンドロールでは庭のデッキチェアに寝転がったビル・マーレイがディランの『嵐からの隠れ場所』(Shelter From The Storm)をしつこいくらい延々と、しかも超下手くそに歌い続けます。これが実に味があるんです。思わず『ロスト・イン・トランスレーション』で泥酔したビル・マーレイが渋谷のカラオケでロキシー・ミュージックの『More Than This』を歌うシーンを思い出してしまいました。
紆余曲折あった不良ジジイがとうとう、人生の安らぎの場所を見つけ出したかのようです。誰だって長く生きてくれば疲れてきます(笑)。皆さんも時には『嵐からの隠れ場所』が欲しくなりませんか?それが薄汚い庭の片隅だっていいじゃないですか(笑)。
文字通りウェルメイドな佳品で、面白かったですよ〜。秀作です。