特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

映画『アクト・オブ・キリング』と読書『九月、東京の路上で』

連休と言っても、どこにも行かず、ただぼーっとしている。文字通り部屋の床に散らばっている映画のチラシや未読の本、DVDを多少片づけながら日頃の生活のだらしなさを反省したくらいか(笑)。それにしても今朝の震度5弱の地震にはちょっとびっくりした。
                                                                                                                                       
青山で話題の映画『アクト・オブ・キリングhttp://www.aok-movie.com/

                                    
1965年から66年にかけて、インドネシアで20世紀最大の虐殺があった。スカルノ大統領を失脚させた軍部のクーデターが起きた際、右派軍人勢力が共産党員を中心に大虐殺を行ったのだ。犠牲者の数は50万人とも200万人!とも言われている。大虐殺の取材を進めていたアメリカ人監督は軍部から脅迫を受け、取材方法を切り替える。今も『国民的英雄』(!)として暮らしている加害者たちに当時の状況をカメラの前で再現してもらうことにしたのだ。加害者たちは意気揚々と大虐殺のことを語り、演じ始める。
                   
今年のアカデミー長編ドキュメンタリー賞ノミネート、映画史に残る傑作とまで言われている作品。インドネシアで起きた大虐殺は9・30事件と呼ばれているそうだが、ボクは殆ど理解していなかった。ピーター・ウィアー監督が撮った、メル・ギブソンシガニー・ウィーバーインドネシアのクーデター下でのラブロマンス危険な年』(エキゾティック&ロマンティックな良い映画!)で描かれたのは覚えていたが、そんな酷い話だとは思わなかった。

危険な年 [DVD]

危険な年 [DVD]

当時のスカルノ大統領は民族主義、容共路線を取って、必ずしも西側諸国との関係は良くなかった(例のデヴィ夫人はこの人の第3夫人だが、スカルノの機嫌を取るために赤坂のホステスだった彼女を差し出したという話もある)。経済や外交面での失策をつく形で軍隊がクーデターを起したが、それにはCIAの後押しもあったという。虐殺には右派の自警団『パンチャシラ青年団』やごろつきが実行部隊として大きな役割を果たしたそうだが、監督によると、殺害候補者リストはCIAが軍に渡したそうだし、日本も含めて西側諸国はこのクーデターで利益を得ている、と言う。クーデターを起したスハルト政権は90年代まで続いていたし、今の政権もその流れを引き継いでいる。つまり、この映画はナチや大日本帝国が勝った、悪夢のような世界の話なのだ。
                                       
主人公はアンワルという人物。今は好々爺だが、当時は1000人以上を殺したという。アメリカ映画のファンでかっては街の映画館の前でダフ屋をやっていたそうだ。まず彼は殺害現場へ行くと殺害の手口を再現してみせる。『最初は殴り殺していたが血の量が多くて後始末が大変なので、針金で絞め殺す方法を考えたんだ。』
●こうやるんだよ。針金を使って人殺しの手口を再現してみせるアンワル(右)。

カメラの前で平然と、というより嬉々として説明するアンワルには罪悪感とか後悔は微塵も感じられない。アンワルだけでなく、彼が引き連れている地元のギャング、ヘルマン(ダチョウ倶楽部上島竜兵に似ている)やアンワルに殺害対象を指示していた新聞社の経営者、彼らもまったく同様だ。州知事なんかは未だに彼らを英雄扱いしているありさまだ。
●アンワルと上島竜兵似のヘルマン(右)

オレンジの服を着たパンチャシラ青年団のメンバーがたびたび出てくる。インドネシア最大の民兵組織、自警団みたいなもので現在100万人以上も隊員がいる。自警団と言ってもカメラの前で平気で華僑からみかじめ料をふんだくったり、ギャングみたいなものだ。
青年団の面々と。安岡力也似のおっさん(左)はカメラの前でも平気で華僑からみかじめ料をふんだくる。

                                               
彼らが村を丸ごと襲った虐殺シーンも再現される。問答無用で村人を殺し、家を焼き払う。上島竜平に似ている肥満体のヘルマンが女装して犠牲者役を演じる。ショッキングピンクの服を着た彼が押さえつけられて『こうやって腹を裂いて妊婦を殺したんだよ』とやっている姿は事情さえ知らなければ、吉本新喜劇かギャグ映画みたいにも見える。笑っていいのか正直困る。いかにも田舎の素朴な人たちみたいな加害者たちが演じる犠牲者への尋問&拷問なども牧歌的にすら見えてしまう。『こうやって切り落とすんだ』とか、やってることは最低最悪なんだけど。南国の強い光と彼らの派手な服がエキゾチックだ。
●村ごと大虐殺の再現シーン。芝居でも恐怖のあまり失神する女性も居た。

映画では時折 インドネシアの現在の状況も挿入される。閣僚もパンチャシラ青年団のメンバーだし、副大統領が彼らの集会で講演をしたりしている。再現映画を作っているという話を取り上げた国営放送では、めかし込んだ女子アナがアンワルに『皆さんは効率的に共産主義者を殺す方法を工夫したんですね(キャハッ)!』みたいなインタビューをやっている。
見ていると段々良くわかんなくなってくる
インドネシアではこれが現実らしい(*ただし映画の舞台となった北スマトラではそうかもしれないが、都会部では違うという話もある)

                                            
アンワルは虐殺を再現しているうちに当初の嬉々とした表情とは別の反応を時折見せるようになる。『悪夢にうなされる』とか、『首を切り取った時 目を見開いたままだった犠牲者の目を閉じておけばよかった』などの台詞を口にするようになるのだ。自ら尋問を受けるシーンを演じたアンワルの姿は文字通り 恐怖に震えているように見えた。
●尋問を受けるシーンを自ら演じたアンワル。

                                  
アンワルたちの映画は滝が流れる美しい草原で、殺された共産主義者たちが蘇ってアンワルたちに感謝する!シーンで終わる。『殺してくれてありがとう』だって。冗談のように聞こえるが作っている本人たちはマジだ。だが、この映画のラストシーンは違う。かって自分が大量虐殺を行ったビルの屋上で当時を回顧するアンワル。突然カメラの前で彼は嘔吐を始める。当時の自分を演じることで客観的になって人間らしい心を取り戻したのか、それともただ、錯乱したのか。


映画の説明が長くなってしまったが、これを実際に自分の眼で見ることは衝撃的な体験だった。20世紀最大の大虐殺がまだ殆ど知られていないということも驚きだが、何よりも、そんな大虐殺を犯す人間は自分たちとあまり変わらないということ(アンワルなんか一見 温和で見ようによってはネルソン・マンデラ氏みたいに見える)が良くわかるからだ。
●孫と一緒のアンワル。彼は自分はシドニー・ポワチエに似ていると自称している(笑)

いざ、その場にいたら自分はどうするか。自分で手を下すことはしないにしても、銃や凶器をもった集団を止めることはできないだろう。見て見ぬふりをするかもしれない。でも現実には見て見ぬ振りをした人も共産党の仲間扱いされて殺されている。そうだとしたら、自分はどうするか。
映画の最後のクレジットには度肝を抜かれる。共同監督を始め、スタッフは『Anonymous(匿名)だらけなのだ。名前がわかると生命の危険があるからだと言う。この映画は自分はインドネシアへ再入国禁止になったアメリカ人監督ジョシュア・オッペンハイマーの意向で、インドネシアではYoutubeで全編を無料で見られるようにしているそうだ。


                                                  
最近 関東大震災の際起きた流言による朝鮮人虐殺のことを書いたこの本『九月、東京の路上で』が話題になっている。読んでみたが、なかなか良い本だった。

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

新大久保に生まれ育った著者は街で繰り返されるヘイトスピーチに頭にきて、この本の中で関東大震災の時に起きた朝鮮人虐殺のことを震災直後から時系列で断片的に追っている。上野、神楽坂、大島、四ツ木永代橋千歳烏山、熊谷など、東京や周辺地域で各地で起きた虐殺を証言集や当時の資料にあたって描写している。『朝鮮人が井戸に毒を入れた』という流言に踊らされた地域住民が自警団を組んで朝鮮人や中国人、それに日本人をリンチして殺している。それを警察や軍隊も手助けする。殺された人の数は正確には判らないが数千人単位だという。章ごとに添えられた地域の地図を見ると事件がすごくリアルに感じられる。
                                         
それは同じことがボクの実家の地域でも起きたからだ。ボクは実際に年寄りたちから、そういうことがあったという話を聞いたことがある。地震も怖かったが人間も怖かったと。住民間で殺人までは起きなかったけれど一触即発だったことはわかっている。また、今もボクが通っている床屋の近くで特高警察が何をやったのかも知っている。
この本では、最近の日本でヘイトスピーチを唱えながら大震災当時の虐殺を否定する白痴がいる、ことが触れられているが、かって東京でも大虐殺があったのだ。この本の巻末ではニューオリンズでも白人の自警団がいわれなく黒人を殺した話に触れているが、関東大震災の時のことを考えたらアンワルたちも、アイヒマンも、ボクには他人事には思えない。
                                                   
自分に対する怖れ、疑いって忘れてはいけないと思う。外部環境や時の運で、一歩間違えれば自分は何をするかわからない。戦争にしろ、災害にしろ、ボクらの祖父や曽祖父は言われなく人を殺したかもしれないのだ。自分が全くそうならないなんて、口が裂けても言うことはできない。そういう可能性を減らすために、そういう環境や世の中に残っている偏見と心の中で闘わなくては。そしてせめて自分で自分を疑い続けなければ。ボクはそう思う。