特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

芸術が、やる。:映画『希望の国』


前回のブログで書き忘れたことがあった。東京オリンピック招致 反対!(笑)
ま、どうせ今回の老人立ち枯れ党の騒ぎでつぶれるだろうが、国賊石原慎太郎は今まで使ったムダ金返せっつーの。大失敗に終わった前回の招致もたった15分のプロモーションビデオに5億も電通に払ったそうだが(これから感想を書く希望の国』の予算は2時間で5000万)、今回も招致費用の書類をなくしたとか見つかったとかいう騒ぎがあった。叩けばほこりが出そうだな。マスコミ、たまには仕事しろ。
それにしても野田佳彦所信表明演説が『明日への責任』とは耳を疑ってしまった。ここまで行くと、国民だけでなく、コトバというものに対する侮辱ではないだろうか。

                          
先週見たドキュメンタリー『フタバから遠く離れて』でショッキングだったのは、原発周辺の地域に残って牛を飼っている人の姿だった。近くにある他の牛舎はミイラ化した牛の死骸であふれる中、『俺はそんなことはできない』と言って餌を黙々と与え続ける男の姿はすごいと思った反面、どうしてここまでするんだろうと思ったのも事実だった。
                                          
新宿で映画『希望の国http://www.kibounokuni.jp/
水道橋博士いわく、『試写会後 映画評論家ですら感想を述べるのに躊躇していた』という原発事故をテーマにした園子温監督の新作。

東日本大震災から数年後、原発が立地する架空の県、長島県。酪農を営む小野泰彦(夏八木勲)は妻(大谷直子)と息子夫婦の4人で和やかに暮らしていた。しかし再び日本に発生した大地震とそれに伴う原発事故は小野家の暮らしを一変させる。認知症の妻を抱えた泰彦は嫌がる息子夫婦を強引に避難させ、自分は妻や牛とともに家に残ることを決意する。

見てよかったと思う映画というものには2種類あると思う。『(客観的に)出来が良い映画』と『自分が好きな映画』だ。園子温監督の前作『ヒミズ』は圧倒的に後者の映画だ。元来は完成度の高さに拘ってきた監督が3・11後の状況にすばやく反応して、敢えて『希望が絶望を乗り越える物語』を荒削りのまま提示してきたことに対して、言い様がない感銘を覚えた。表現者としての責任、という奴だろうか。まだ10代の染谷将太二階堂ふみちゃんというエネルギーに溢れた役者さんの存在も相まって、ボクはこの映画にいとおしさすら,感じた。
                                          

                           
希望の国』も同じ系譜に連なる作品だ。原発がテーマと言っても、声高に誰かを非難するような作品ではない。原発に対する意見表明もない。架空の土地、時間を舞台にした寓話の形を取りながら、3・11後のリアリティが人を突き刺すように散りばめられている。『ヒミズ』ではやや遠慮がちにも見えた被災地での撮影も、ここではもう、堂々と全面展開されている。あの日に起きたことは意地でも忘れないぞ、というかのようだ。 
●あたりに広がるのは、廃墟。


監督は実際に警戒区域の人たちから話を聞きながら、脚本を作ったそうだ。

 ・事故が起きた当初 防護服を来た役人が押しかけて、避難を呼びかけるでもなく無言のまま、放射能を測定していたこと
 ・20キロ圏内ということで自分の家の敷地の半分(だけ)が立ち入り禁止になってしまったこと
 ・避難した被災地の人たちが受けた差別、イジメ
 ・放射能を怖がる人に対する周囲からのバッシング。

                                            
この映画で取り上げられたエピソードは断片的には聞いたことがあるものも多い。だが、それらは『知ってるけど、知ってるだけで終わっている』と園監督は言っている。だからこそドキュメンタリーではなく、『物語』として提示することでより強い印象を残そうというのだろう。『フタバから』で描かれた牛を飼い続ける男の話は、ボクはこの映画を見て始めて合点がいった。神楽坂恵扮する妊娠した若妻が恐怖に駆られて防護服を着たり、放射能を可視化させて雪のように降らせるシーンなど寓話仕立てにした部分は?というところもあるが、ここで描かれた物語の強さに比べれば些細なことのように思える。
●防護服の役人は何の説明もしない。

                                                 
初老の夫婦は周囲から避難するよう強いられても、家に留まり続ける。若夫婦は移住先で妊娠がわかり、妻は放射能に怯え続けるようになる。やがて彼らはさらに遠く離れた土地へ移住する。隣人の息子とその恋人は津波に流された家族を探して非常線を突破して被災地へ侵入する。
原発事故を巡る物語は次第に老人と若者、3組の男女の物語に収斂していく。園監督の作品らしく、人間の醜い部分も直視しているが、物語は展開するに連れ、人間の美しさを描き始めるようになる。背景に起きている事件が不条理であるだけに、その美しさは一層際立つ。

初老の夫を演じた夏八木勲がこんなに良い俳優だとは知らなかった。今年の主演男優賞は間違いなく、この人だ!まるでイーストウッドのような独立独歩のリバタリアン爺をたくましく、繊細に演じている。事故が起きたあとも、彼は牛の世話をし、妻の介護をし、殆ど声を荒げるでもなく、淡々と暮らしていく。その間の彼の複雑な表情も良かったが、息子へ向けて、まるで血を吐くように述べた言葉が印象に残る。
『おまえはフクシマで起きたことをもう忘れてしまったのか。』
『逃げるということは強い人間だからこそ、できることだ。逃げて、逃げて、生き残ればいい。』
●この顔だよ、この顔。


                                             
認知症の妻役の大谷直子はもちろん凄い。『おうちに帰ろう』という彼女の口癖(実際に認知症を患っている監督の母親の口癖でもあるそうだ)は無邪気な童女のようにきこえるのだけれど、もう帰る場所などないことを知っている夫、それに観客を、途方に暮れさせる。もう、誰も原発事故前の時代に戻ることはできないのだから。
彼女が警戒区域に迷い込むシーンの美しさには文字通りぞくぞくしたし、もう涙が止まらなかった。繊細で詩的な表現は同時に流れるマーラー交響曲第10番の力も相まって、物語に一層の強さをもたらしている。このシーンを見るためだけでも、この映画は見る価値があるのではないか。

                                                  
9月30日に『希望の国』を扱ったNHK E-TV特集『映画にできること 園子温と大震災』が放送されていた。実際に震災の取材に当たった記者が園監督への取材とナレーションを担当した、秀逸なドキュメンタリーだった。その中で、原発がテーマだということで多くの日本の会社が出資に躊躇したこと(結局 イギリスと台湾のファンドが出資した)、実際に家の敷地の半分が立ち入り禁止になった南相馬の人の話から映画のヒントを受けたこと、などが語られていた。
その南相馬の人に出来上がった試写を見てもらうシーンも流されていた。途中で、耐えられないと言った様子で監督は席を外してしまう。『老夫婦の結末は被災者の人を傷つけてしまうかもしれない』と監督は語っていた。『だが今回の事故が忘れ去られてしまわないように、それでも描かなくてはならない』とも。
ちなみに、7月の官邸前抗議に園子温監督が奥さんの神楽坂恵と一緒に参加していたのをボクは知っている。スピーチをするでもなく、一人の参加者として雨の舗道を歩いていた。雨に浮かぶ色はどんな色?:★7.6緊急!大飯原発3号基を停止せよ!首相官邸前抗議 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)
                                                

未だに誰も踏み込もうとしないテーマを扱ったこの映画の中でも、特にラストはより一層賛否が分かれるだろう。ボクは好きだ。希望と言うものは自分で作り出すものだ、ということがとてもよく表現されていたと思う。
NHKの番組で加賀美アナが朗読していた、監督が作った『』と言う詩が印象に残った。

『数』
まずは何かを正確に数えなくてはならなかった。
草が何本あったかでもいい。
全部、数えろ。
                            
花が、例えば花が、
桜の花びらが何枚あったか。

『膨大な数』という大雑把な死とか涙、苦しみを
数値に表せないとしたら、何のための『文学』だろう

                                               
季節の中に埋もれていくものは
数えあげることが出来ないと、
政治が泣き言を言うのなら、
芸術がやれ
                                                     

映画希望の国』はこの詩に書かれていることを実践している。このような表現が作られたこと自体が、数少ない希望のひとつかもしれない。
ボクはこの映画が好きだ。